懐疑
懐疑主義は、負けることがない。全ては「疑う」ことができる。「疑う」とは「上に立って」「評価」することだ。現代人にクリシュナムルティという宗教家がウケているのも、この辺の事情であると思う。クリシュナムルティは、「私は何も信じない」という本を出しているように、何かを信じろとは言わない。ただひたすら疑って、自分の思考や感覚を「見ろ」と言っている。非常に現代のインテリに受けそうな教説である。
懐疑主義はもともと、明朗に生きるための方法だった。ピュロンという人が懐疑主義を創始したが、ピュロンという人は、何事においても「判断停止」をして、安らかな人生を送ったらしい。古代人にとって、「疑う」とは「判断停止」することであって、要は「確実なことなんか何もないということだけは確実なのだから、判断を停止して生きよう」という格率だった。
現代人の懐疑は違う。現代人の懐疑は、そのまま「寄る辺なさ」に直結している。仏教の中の6煩悩に「疑」があるように、本来「疑」というのは「つらい」。テーラワーダ仏教によると、修行によって、預流果という境地まで達すれば、「疑」という煩悩は消えるらしい。つまり、「お釈迦様はそういうてるけど、ほんまにこんな修行しててええんかなあ」という思いが消えるらしい。これはクリシュナムルティと同じように、修行や観察といった「経験」に立脚して「疑」を消す方法だ。僕はこの境地がめちゃくちゃ羨ましい。100%「疑」のない境地。地に足がついている。根っこがある。
信仰は、全く別のアプローチをする。経験や理性というものを頼らずに、直接「疑」をなくす。信仰が深まってくると、もはや「浄土」のほうが「現実」に思えてきて、娑婆世界は「夢」のように思えるようになる人も多いらしい。浄土という根っこがある人は、幸せだ。
僕は、現代人の懐疑は不幸であると思う。100%信じられるもの。フロイトなどが証明したように、「自分」というのも信じられたものではない。「懐疑」がなくなった人生は、安らかだ。君たちはどうやって懐疑をなくすか。
懐疑主義はもともと、明朗に生きるための方法だった。ピュロンという人が懐疑主義を創始したが、ピュロンという人は、何事においても「判断停止」をして、安らかな人生を送ったらしい。古代人にとって、「疑う」とは「判断停止」することであって、要は「確実なことなんか何もないということだけは確実なのだから、判断を停止して生きよう」という格率だった。
現代人の懐疑は違う。現代人の懐疑は、そのまま「寄る辺なさ」に直結している。仏教の中の6煩悩に「疑」があるように、本来「疑」というのは「つらい」。テーラワーダ仏教によると、修行によって、預流果という境地まで達すれば、「疑」という煩悩は消えるらしい。つまり、「お釈迦様はそういうてるけど、ほんまにこんな修行しててええんかなあ」という思いが消えるらしい。これはクリシュナムルティと同じように、修行や観察といった「経験」に立脚して「疑」を消す方法だ。僕はこの境地がめちゃくちゃ羨ましい。100%「疑」のない境地。地に足がついている。根っこがある。
信仰は、全く別のアプローチをする。経験や理性というものを頼らずに、直接「疑」をなくす。信仰が深まってくると、もはや「浄土」のほうが「現実」に思えてきて、娑婆世界は「夢」のように思えるようになる人も多いらしい。浄土という根っこがある人は、幸せだ。
僕は、現代人の懐疑は不幸であると思う。100%信じられるもの。フロイトなどが証明したように、「自分」というのも信じられたものではない。「懐疑」がなくなった人生は、安らかだ。君たちはどうやって懐疑をなくすか。
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