人間嫌い 病気
最近、エミール・シオランの本を読んでいる。シオランの解説書に「シオランは公衆の面前で悪態をつく病気だった」みたいなことが書かれていた。僕は、人間の、自分の痴態を売るような行為、売春のような行為、すなわち「表現」のことが好きではないんだけれど、「病気」と言われれば、納得がいく。仕方ないんだな、と思う。
僕はそもそも人間が好きではない。好きではないから家に引きこもっているんだけれど、本当に誰にも会いたくない。人間の、自己愛、虚栄心、計算高さ、承認欲求、虚言癖、下心、が本当に嫌い。自分のそういうところも嫌いだし、他人のそういうところも嫌い。けれども、それを「病気」と割り切ってしまえば、割と「仕方ない」と思えるかもしれない。
お釈迦様は、「医者」と呼ばれていて、人間の心の病気を治す名医だった。人間はみな病人だ。人間の病気は、2つあると思う。「意識」と「欲望」である。これは世界にとって「余計なもの」なのだと思う。無機物→植物→動物→人間と進むにつれて、病気の根が深くなっていく。生まれる前は、誰も病人ではなかった。そして死んだあとも、誰も病人ではない。仏教では六道輪廻といって、生物はみな生まれ変わることになっているので、浄土へ行くことなしには、病気が癒えることはない。
意識は、過剰なものである。意識があるから痛いし、苦しいし、悩む。「無」に憧れているわけではないけれど、僕には「楽しさ」のようなものも過剰なものに思える。夢を見ない眠りを見ている時、そして死んだときだけ、人間は、病気から逃れている。意識が過剰だというのは、不眠症の人には良く分かると思う。僕も一時期不眠症だったけれど、早く意識のスイッチを切りたくて仕方がなかった。顔のように見える木目の天井を見ながら、意識を呪っていた。
欲望も過剰なものである。僕が嫌いな病気は、意識より欲望だ。欲望のせいで、喧嘩をするし、トイレットペーパーが店からなくなるし、戦争が起きるし、嘘をつくし、自撮りをするし、嫉妬をするし、自慢をするし、犯罪をする。「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。欲望という病気から逃れるためには、修行をするか、死=浄土へ行くしかないんだろう。
けれど、欲望を「病気」と割り切ってしまえば、自分の病気も、他人の病気も、許せるようになる気がする。例えば僕は、詩人という人種が嫌いなんだけれど、「あれはああいう病気なんだな」と思えば、嫌悪感が薄らぐ。
「人間は病気なのだから、人間の浅ましさも全部カンペキに許そう」と思いたい。けれど僕も「人間嫌い」という病気だから、難しい。みんなが健康になったらいい。病人を許せる程度の、「健康」が欲しい。
僕はそもそも人間が好きではない。好きではないから家に引きこもっているんだけれど、本当に誰にも会いたくない。人間の、自己愛、虚栄心、計算高さ、承認欲求、虚言癖、下心、が本当に嫌い。自分のそういうところも嫌いだし、他人のそういうところも嫌い。けれども、それを「病気」と割り切ってしまえば、割と「仕方ない」と思えるかもしれない。
お釈迦様は、「医者」と呼ばれていて、人間の心の病気を治す名医だった。人間はみな病人だ。人間の病気は、2つあると思う。「意識」と「欲望」である。これは世界にとって「余計なもの」なのだと思う。無機物→植物→動物→人間と進むにつれて、病気の根が深くなっていく。生まれる前は、誰も病人ではなかった。そして死んだあとも、誰も病人ではない。仏教では六道輪廻といって、生物はみな生まれ変わることになっているので、浄土へ行くことなしには、病気が癒えることはない。
意識は、過剰なものである。意識があるから痛いし、苦しいし、悩む。「無」に憧れているわけではないけれど、僕には「楽しさ」のようなものも過剰なものに思える。夢を見ない眠りを見ている時、そして死んだときだけ、人間は、病気から逃れている。意識が過剰だというのは、不眠症の人には良く分かると思う。僕も一時期不眠症だったけれど、早く意識のスイッチを切りたくて仕方がなかった。顔のように見える木目の天井を見ながら、意識を呪っていた。
欲望も過剰なものである。僕が嫌いな病気は、意識より欲望だ。欲望のせいで、喧嘩をするし、トイレットペーパーが店からなくなるし、戦争が起きるし、嘘をつくし、自撮りをするし、嫉妬をするし、自慢をするし、犯罪をする。「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。欲望という病気から逃れるためには、修行をするか、死=浄土へ行くしかないんだろう。
けれど、欲望を「病気」と割り切ってしまえば、自分の病気も、他人の病気も、許せるようになる気がする。例えば僕は、詩人という人種が嫌いなんだけれど、「あれはああいう病気なんだな」と思えば、嫌悪感が薄らぐ。
「人間は病気なのだから、人間の浅ましさも全部カンペキに許そう」と思いたい。けれど僕も「人間嫌い」という病気だから、難しい。みんなが健康になったらいい。病人を許せる程度の、「健康」が欲しい。
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