恐怖 脆い 安心
名声を手に入れたり 人を支配したり 金もうけをするのも安心するためだ
結婚したり 友人をつくったりするのも安心するためだ
人のために役立つだとか 愛と平和のためにだとか すべて自分を安心させるためだ
安心を求める事こそ人間の目的だ—————DIO
「自分」が「安心」するために生きる。芥川龍之介は、「将来へのぼんやりとした不安」のために自殺したが、将来という不安定なものに、安心ができなかった。
「安心」するためにはどうすればいいか?この「安心」を脅かすのは、世界の「脆さ」だと思う。DIOは名声や人や金儲けを「安心」する手段として置いているが、それらは全てが「脆い」。世界は全て、砂で出来た城だ。「日常」という、砂でできた城が、最近、コロナウイルスという「無」の侵入で、ほろほろと崩壊している。世界は、脆い。ずっと生きているだろうと思っていた母親は47歳で死んでしまった。ずっと仲良しだと思ってた友達は、離れていった。人間も、物も、関係も、愛も、平和も、日常も、全てが砂上の楼閣で、僕を「安心」させてくれるものは、何もない。
「自分」はどうだろうか?僕が「信仰をしている」というと、「私は自分しか信じていない」と言われることが多々あるけれど、自分は、「脆くない」存在だろうか。そんなことはない。明日、交通事故で、足がなくなるかもしれない。精神病になって、首を吊るかもしれない。
安心するためには、相対的な脆いものではなく、「絶対的なもの」が必要になる。絶対的なものとはすなわち、無か全である。無をたよりにするのが、「自殺」であり、全をたよりにするのが、「信仰」である。DIOの言うように、もしも人間が「安心」を求めて生きるのであれば、この2つに行きつかざるを得ない。他は中途半端だ。
ニーチェが「自殺を思うことは、優れた慰めの手段である。これによって人は、数々の辛い夜をどうにか堪え凌ぐことができる。」と言っていたが、無を瞑想するということは、それだけで「安心」する効果がある。けれども一番安心するのは、やはり実行したときだろう。安心も不安もない、絶対的な無の中に沈む。不安からの逃避としての自殺。
もう一つは絶対者を信じるということだが、自殺をしないならば、こちらを選ぶことになる。「脆くない」絶対者をたよりにするという安心感。「安心を求めることこそ人間の目的」ならば、絶対者をたよりにするしかないだろう。
最近、若者のカルチャーで、「あんしん」とか「大丈夫」という言葉をよく聞く。誰かから、安心を付与されたいのだと思う。それは恋人ではないし、アーティストでも自分でもない。イエスが原罪を背負って死んでくれたし、法蔵菩薩が永劫の修行をしてくれたし、きっと大丈夫。
「大丈夫」「安心」になる仕掛けは、用意されている。
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