演じる 幾何学的な点
太宰治で一番好きな作品はダントツで斜陽である。他の長編はあまり読んだことがなく、短編ばかり読んだけれど、短編では一番、女生徒が好きだ。女生徒で好きな一節。
有名な人間失格は、僕はみんなが言うほど共感できなくて、ぴんとこなかったのだけれど、一つだけ共感できた部分がある。それは主人公の幼少期の描写だ。
ゼスチュア、ポオズ、道化。仮面、ペルソナ、建前。即自的な僕自身になることは、不可能で、僕はたえず、僕から逃走し続ける。僕は昔、自分の小説に、自分のことを「幾何学的な点」と書いた。ユークリッド幾何学における点は便宜上、目に見えるように書かれるが、理念的なものとしては、紙に書くことができない。「本当の僕」というのは無限小としては存在するかもしれないが、それは理念的には存在しない。経験的には存在するけれど、理念的には存在しない。幽霊だ。
僕は家族や親族へ向かって、仮面を被っている。「無口で人のことが苦手な障碍者」としてふるまっている。家族は僕のことをそう思っているだろうけれど、この人は、僕が演じている役柄に過ぎない。多かれ少なかれ、人間はペルソナというものを持っているはずだけれど、僕自身については、自閉症だからか知らないが、幾何学的な点である僕と、この世に住んでいる僕とは、無限大の距離がある。
ここまではいい。前提である。このような精神構造の人は、世の中にたくさんいるだろう。僕の近くにも一人いる。自分のことを「透明」だと表現している人間は多くいる。ただそれはあまりにも陳腐だし、なにより面白くない。
解決方法が必要である。だって寂しすぎるから。ただしこれは言語では不可能だ。言語は、幾何学的な点の目の前を過ぎ去っていく風景にしか過ぎない。言葉は「言葉になった自分」に過ぎない。詩を書いても哲学書を書いても、詩や哲学は僕ではない。
一つには、「自我を完全に滅する」という方法があると思う。これは俗に言う「悟りを開く」と言われる方法であり、修行をすることで可能になる。幾何学的な点が死ねば、仮面のほうはどうなるか知らないけれど、多分、役者が死ねば役柄も死ぬように、お互い滅するのだと思う。もしくは、無即全になるのかもしれない。問題点は、修行が、一般人では不可能であるということだ。僕は挫折した。
もう一つには、死ぬという方法がある。「過去」は、「僕自身」である。凝固した「僕自身」である。僕自身でないのは、現在の僕である。現在の僕が、凝固した「僕自身」から絶えず逃れ続けるのが問題なので、思い切って死ねば、全てが過去になり、僕は僕自身になれる。ただ、僕は死にたくない。怖いから。
僕がとったのは3つ目の方法で、それは南無阿弥陀仏である。清沢満之は、宗教は有限と無限の一致であるといい、鈴木大拙も妙好人にそのような境地を見出していたが、僕はそういう悟り的な解決ではなく、単純に「呼ばれる」という部分に魅力を感じた。「僕の全て」を知っている弥陀仏から、声をかけられる。「南無阿弥陀仏」とは、自分につけられた「名前」だと言われることも多い。「お前の全てを知っているぞ、引き受けるぞ、そのままでいいぞ、お前は南無阿弥陀仏だぞ」というのは、僕の本当の姿の肯定ではなかろうか。幾何学的な点が死ぬことはないけれど、僕は分裂しているそのまま、そのまま、「そのままでいい」と声をかけられる。安易な現状肯定ではないか?本当にそれで解決なのか?という声もするけれど、とりあえず僕は、これでもう「寂しくない」。仏の前では、もう演じなくていい、嘘をつかなくていい。ありがとう。
ゼスチュアといえば、私だって、負けないでたくさんに持っている。私のは、その上、ずるくて利巧に立ちまわる。本当にキザなのだから始末に困る。「自分は、ポオズをつくりすぎて、ポオズに引きずられている嘘つきの化けものだ」なんて言って、これがまた、一つのポオズなのだから、動きがとれない。
有名な人間失格は、僕はみんなが言うほど共感できなくて、ぴんとこなかったのだけれど、一つだけ共感できた部分がある。それは主人公の幼少期の描写だ。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
ゼスチュア、ポオズ、道化。仮面、ペルソナ、建前。即自的な僕自身になることは、不可能で、僕はたえず、僕から逃走し続ける。僕は昔、自分の小説に、自分のことを「幾何学的な点」と書いた。ユークリッド幾何学における点は便宜上、目に見えるように書かれるが、理念的なものとしては、紙に書くことができない。「本当の僕」というのは無限小としては存在するかもしれないが、それは理念的には存在しない。経験的には存在するけれど、理念的には存在しない。幽霊だ。
僕は家族や親族へ向かって、仮面を被っている。「無口で人のことが苦手な障碍者」としてふるまっている。家族は僕のことをそう思っているだろうけれど、この人は、僕が演じている役柄に過ぎない。多かれ少なかれ、人間はペルソナというものを持っているはずだけれど、僕自身については、自閉症だからか知らないが、幾何学的な点である僕と、この世に住んでいる僕とは、無限大の距離がある。
ここまではいい。前提である。このような精神構造の人は、世の中にたくさんいるだろう。僕の近くにも一人いる。自分のことを「透明」だと表現している人間は多くいる。ただそれはあまりにも陳腐だし、なにより面白くない。
解決方法が必要である。だって寂しすぎるから。ただしこれは言語では不可能だ。言語は、幾何学的な点の目の前を過ぎ去っていく風景にしか過ぎない。言葉は「言葉になった自分」に過ぎない。詩を書いても哲学書を書いても、詩や哲学は僕ではない。
一つには、「自我を完全に滅する」という方法があると思う。これは俗に言う「悟りを開く」と言われる方法であり、修行をすることで可能になる。幾何学的な点が死ねば、仮面のほうはどうなるか知らないけれど、多分、役者が死ねば役柄も死ぬように、お互い滅するのだと思う。もしくは、無即全になるのかもしれない。問題点は、修行が、一般人では不可能であるということだ。僕は挫折した。
もう一つには、死ぬという方法がある。「過去」は、「僕自身」である。凝固した「僕自身」である。僕自身でないのは、現在の僕である。現在の僕が、凝固した「僕自身」から絶えず逃れ続けるのが問題なので、思い切って死ねば、全てが過去になり、僕は僕自身になれる。ただ、僕は死にたくない。怖いから。
僕がとったのは3つ目の方法で、それは南無阿弥陀仏である。清沢満之は、宗教は有限と無限の一致であるといい、鈴木大拙も妙好人にそのような境地を見出していたが、僕はそういう悟り的な解決ではなく、単純に「呼ばれる」という部分に魅力を感じた。「僕の全て」を知っている弥陀仏から、声をかけられる。「南無阿弥陀仏」とは、自分につけられた「名前」だと言われることも多い。「お前の全てを知っているぞ、引き受けるぞ、そのままでいいぞ、お前は南無阿弥陀仏だぞ」というのは、僕の本当の姿の肯定ではなかろうか。幾何学的な点が死ぬことはないけれど、僕は分裂しているそのまま、そのまま、「そのままでいい」と声をかけられる。安易な現状肯定ではないか?本当にそれで解決なのか?という声もするけれど、とりあえず僕は、これでもう「寂しくない」。仏の前では、もう演じなくていい、嘘をつかなくていい。ありがとう。
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