僕は僕になりたい | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

僕は僕になりたい

 僕は僕になれない。サルトルは、その絶望を執拗に、かつ精緻に分析している。めちゃくちゃ雑にパラフレーズすると、自分は「自分についての意識」であるから、自分自身とは必ず「分離」が存在している。仮に「過去の自分」を「自分」だとしてみても、本当の自分とは「過去の自分についての意識」だから、「過去の自分」から、ズレる。詩人になりたい人が、詩人になったとしても、自分は「詩人である自分についての意識」であるから、詩人である自分ではない。「それであるところであらぬもの」、「それであるところについての意識」が「自分」であって、「それ」に何を代入しても、それ「についての意識」が自分であるので、僕は何者にもなれない。僕は「僕自身」として存在しているのではなくて、「僕自身についての意識」として存在している。未来に措定された「僕自身」になったとしても、その途端にそれは「僕自身についての意識」へ失墜し、「僕自身」は未来へ先伸ばされる。僕は永久に僕自身になれない。
 
 昔、ブログに「自分自身の名前と自分の意識が一致しない人」が自分の同類だと書いたが、その永久に自分自身になれない人のことが、僕は大好きだ。こじらせている人が好きだ。何者かになりたくて、彷徨っている亡霊が好きだ。
ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった−意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。かくていま、ぼくは自分の片隅にひきこもって、残された人生を生きながら、およそ愚にもつかないひねくれた気休めに、わずかに刺戟を見いだしている、−賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。——————地下室の手記

 僕は確実にこの亡霊だけれど、僕は僕になることを、諦めていない。永久にたどり着けない僕自身という虚構を追いかけるのではなく、僕は僕自身になる。
 
 
愛は、それ自体においては死せる存在をわけ、存在を存在自身の前に置くことによって、いわば二重の存在となす。そうしてそれを、自ら見、自らを知る自我または自己となすのである。この自我性の内にすべての生の根源が存する。他方、愛は、この分けられた自我を緊密に合一し、結合する。自我は、愛なくしてはただ冷ややかに、また無関心に自らを見るに過ぎないであろう。この合一によってもその二重性は止揚されず、永遠に残るが、この二重性における一性こそ生である——————フィヒテ

 サルトルは非反省的な「自己についての意識」で、フィヒテは反省的な「自己についての意識」の話をしてるので、ここを接続するのは強引かもしれないけれど、僕は接続できると思う。「僕自身」と「僕自身についての意識」を合一させるのは、愛である。僕は二つのまま、一つになる。僕は僕になりたい。分裂した僕を、そのまま包み込むような愛が、あるはずだ…。南無。
 

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