僕は僕になりたい
僕は僕になれない。サルトルは、その絶望を執拗に、かつ精緻に分析している。めちゃくちゃ雑にパラフレーズすると、自分は「自分についての意識」であるから、自分自身とは必ず「分離」が存在している。仮に「過去の自分」を「自分」だとしてみても、本当の自分とは「過去の自分についての意識」だから、「過去の自分」から、ズレる。詩人になりたい人が、詩人になったとしても、自分は「詩人である自分についての意識」であるから、詩人である自分ではない。「それであるところであらぬもの」、「それであるところについての意識」が「自分」であって、「それ」に何を代入しても、それ「についての意識」が自分であるので、僕は何者にもなれない。僕は「僕自身」として存在しているのではなくて、「僕自身についての意識」として存在している。未来に措定された「僕自身」になったとしても、その途端にそれは「僕自身についての意識」へ失墜し、「僕自身」は未来へ先伸ばされる。僕は永久に僕自身になれない。
昔、ブログに「自分自身の名前と自分の意識が一致しない人」が自分の同類だと書いたが、その永久に自分自身になれない人のことが、僕は大好きだ。こじらせている人が好きだ。何者かになりたくて、彷徨っている亡霊が好きだ。
僕は確実にこの亡霊だけれど、僕は僕になることを、諦めていない。永久にたどり着けない僕自身という虚構を追いかけるのではなく、僕は僕自身になる。
サルトルは非反省的な「自己についての意識」で、フィヒテは反省的な「自己についての意識」の話をしてるので、ここを接続するのは強引かもしれないけれど、僕は接続できると思う。「僕自身」と「僕自身についての意識」を合一させるのは、愛である。僕は二つのまま、一つになる。僕は僕になりたい。分裂した僕を、そのまま包み込むような愛が、あるはずだ…。南無。
昔、ブログに「自分自身の名前と自分の意識が一致しない人」が自分の同類だと書いたが、その永久に自分自身になれない人のことが、僕は大好きだ。こじらせている人が好きだ。何者かになりたくて、彷徨っている亡霊が好きだ。
ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった−意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。かくていま、ぼくは自分の片隅にひきこもって、残された人生を生きながら、およそ愚にもつかないひねくれた気休めに、わずかに刺戟を見いだしている、−賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。——————地下室の手記
僕は確実にこの亡霊だけれど、僕は僕になることを、諦めていない。永久にたどり着けない僕自身という虚構を追いかけるのではなく、僕は僕自身になる。
愛は、それ自体においては死せる存在をわけ、存在を存在自身の前に置くことによって、いわば二重の存在となす。そうしてそれを、自ら見、自らを知る自我または自己となすのである。この自我性の内にすべての生の根源が存する。他方、愛は、この分けられた自我を緊密に合一し、結合する。自我は、愛なくしてはただ冷ややかに、また無関心に自らを見るに過ぎないであろう。この合一によってもその二重性は止揚されず、永遠に残るが、この二重性における一性こそ生である——————フィヒテ
サルトルは非反省的な「自己についての意識」で、フィヒテは反省的な「自己についての意識」の話をしてるので、ここを接続するのは強引かもしれないけれど、僕は接続できると思う。「僕自身」と「僕自身についての意識」を合一させるのは、愛である。僕は二つのまま、一つになる。僕は僕になりたい。分裂した僕を、そのまま包み込むような愛が、あるはずだ…。南無。
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