バカ
馬鹿にも2種類いると思う。「直接性」と「反省性」という概念から考える。
直接性に生きている人間は、馬鹿だ。素直な馬鹿と言っていい。直接性というのは当たり前すぎて、説明するのが難しい。
ソクラテス的に言うと、「自己の魂の気遣いをせずに生きている人」のことだ。パスカル的に言うと「気晴らしで生きている人」のことで、ハイデガー的に言うと「頽落している人」のことで、普通に言うと、「何も考えずに付和雷同に生きている人」のことだ。本能的に生きていると言ってもいい。僕は「反省」をすると「恥」が生まれるものだと思うけれど、仏教では「恥」のことを専門用語で「慚愧」といい、「慚愧」のない生き物のことを「畜生」という。動物的に生きている人。「そのまま」生きている人。
反省というのはこの「直接性」に亀裂が入って、「自己自身」が問題になっている人。チンパンジー以下の知能の動物は、鏡を見せても、同種の別の個体だと認識するらしい。チンパンジーもかろうじて自己だと認識するぐらいで、人間ほどではない。そういう意味では人間は「鏡を見る存在」「省みる存在」と言っていいかもしれない。
直接性から反省性に行くには、気晴らし的な生をやめて「魂を気遣う生活」をする必要がある。そのためにはまず、人は本を読むだろう。文学書や哲学書、宗教書を読んで、自己自身を知ろうとする。そして、この段階の人は、「直接性」に生きている人、「何も考えてない人」をバカにするようになる(ことが多い)。「俺はこれだけ世界のことを知って自己省察をしてるのに、あいつらはなんだ。」いわゆる「賢い人」が出来上がる。
けれども「反省」を続けていくと、己の「見たくない部分」がどんどん出てくる。本当の自分が見えてくる。限界が見えてくる。「妄念はもとより凡夫の自体なり」と源信僧都が言われたように、人間は自己中心的な妄念に、目鼻がくっついている物でしかない。最後に、「己は他者に迷惑をかけて、親不孝もので、何も知らず、知者ぶっていた、本当のバカものだ」と気づかされる。
馬鹿な直接性→賢い反省性→馬鹿な反省性という風に、弁証法的に進んでいくものだと思う。愚→賢→愚と進んでいくが、最初の愚と最後の愚は恐らく違う。最初の愚から反省性に行くには、身内の不幸や自己の病気、死の恐怖などの契機が必要な気がする。
愚のまま大地に帰っていく。それが一番の幸せだと思う。
直接性に生きている人間は、馬鹿だ。素直な馬鹿と言っていい。直接性というのは当たり前すぎて、説明するのが難しい。
ソクラテス的に言うと、「自己の魂の気遣いをせずに生きている人」のことだ。パスカル的に言うと「気晴らしで生きている人」のことで、ハイデガー的に言うと「頽落している人」のことで、普通に言うと、「何も考えずに付和雷同に生きている人」のことだ。本能的に生きていると言ってもいい。僕は「反省」をすると「恥」が生まれるものだと思うけれど、仏教では「恥」のことを専門用語で「慚愧」といい、「慚愧」のない生き物のことを「畜生」という。動物的に生きている人。「そのまま」生きている人。
反省というのはこの「直接性」に亀裂が入って、「自己自身」が問題になっている人。チンパンジー以下の知能の動物は、鏡を見せても、同種の別の個体だと認識するらしい。チンパンジーもかろうじて自己だと認識するぐらいで、人間ほどではない。そういう意味では人間は「鏡を見る存在」「省みる存在」と言っていいかもしれない。
直接性から反省性に行くには、気晴らし的な生をやめて「魂を気遣う生活」をする必要がある。そのためにはまず、人は本を読むだろう。文学書や哲学書、宗教書を読んで、自己自身を知ろうとする。そして、この段階の人は、「直接性」に生きている人、「何も考えてない人」をバカにするようになる(ことが多い)。「俺はこれだけ世界のことを知って自己省察をしてるのに、あいつらはなんだ。」いわゆる「賢い人」が出来上がる。
けれども「反省」を続けていくと、己の「見たくない部分」がどんどん出てくる。本当の自分が見えてくる。限界が見えてくる。「妄念はもとより凡夫の自体なり」と源信僧都が言われたように、人間は自己中心的な妄念に、目鼻がくっついている物でしかない。最後に、「己は他者に迷惑をかけて、親不孝もので、何も知らず、知者ぶっていた、本当のバカものだ」と気づかされる。
馬鹿な直接性→賢い反省性→馬鹿な反省性という風に、弁証法的に進んでいくものだと思う。愚→賢→愚と進んでいくが、最初の愚と最後の愚は恐らく違う。最初の愚から反省性に行くには、身内の不幸や自己の病気、死の恐怖などの契機が必要な気がする。
愚のまま大地に帰っていく。それが一番の幸せだと思う。
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