人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

神話

 1ミリにも満たない非常に小さな物質が、「偶然」にも、「増える」という性質を持つようになった。それは太古の海の話であった。「増える」という性質を持った物質は他には存在しないので、古代の海は、瞬く間にその物質でいっぱいになった。ここで問題が起こる。「増える」にしても、自分の分身を作るための、「素材」が必要になってくる。素材は有限である。海は飽和する。
 その物質に、「偶然」突然変異が起こり、「素材」を少し手に入れやすくなる。そうすると、その新たな物質が、海を席巻する。また素材が足りなくなる。「偶然」突然変異が起きる。増える。
 「偶然」の突然変異を積み重ねた結果、その物質は「皮膚」やら「眼」やらといったものを武装するようになる。「偶然」の積み重ねで。
 「偶然」「増えやすい性質」を持ったものが、増えていく。「増えやすいものは増える」。当り前のこと。そのうちに、さまざまな環境に適応するような「武装」をした「物質」が増えて、「魚」「鳥」「動物」のようなものができる。
 「増えにくい性質を持った武装」は消えてなくなるので、「増えやすい性質を持った武装」しかなくなる。そして人類が生まれる。
 生き物が生きている理由。それは「偶然増えたから増えた」。生き物(武装)は子孫を残すのが使命だと思っている人も多いが、それは違う。「今まで子孫を残すような生き物が生き残ってきたから、生き物にはそのような性質がある」というのが真理である。

 生物が生きている理由は何か?それは、「増えたから増えた」でしかありえない。神が人間に似せて作ったわけでもない。神が産めよ増やせよと言ったわけでもない。「減る生き物」は生き残らないので、「増える生き物」だけが生き残った。子供を産む理由も「増える性質を持ったものが生き残ってきたから」でしかない。「目的」などない。「増えたから増えた」

 4日後に、姉貴に子供が産まれる。帝王切開らしい。無事に生まれてほしい。

欲しいものリスト

 お金がないので誰か読む本恵んでください
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意志を聞く

 中世の2大スコラ哲学者に、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスと、トマス・アクィナスがいる。ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは主意説を説いていて、トマス・アクィナスは主知説を説いている。2人とも概説書で読んだぐらいなので、詳しい議論は分からないけれど、僕は信仰の本質はヨハネス・ドゥンス・スコトゥスと同じく、「意志」が主なものだと思う。西田幾多郎も、自分の哲学、宗教論では主意説をとっている。
 不合理故に我信ず、と言ったのはキリスト教神学者テルトゥリアヌスだが、「合理的」だから信じるのではなく、知性では「不合理」だけども、それでも意志を貫徹させるのが、キリスト教的な信仰であると思う。
 一方、浄土真宗は、この「意志」の方向が違う。キリスト教では、神に背いたまま生きてきた自分を懺悔して、「意志」を神の方へ振り向けるのが「信仰」だが、浄土真宗の場合は、阿弥陀仏の「意志」を聞く、「お前を助けるぞ」という「意志」を聞くのが信心である。鈴木大拙は、弥陀の本願のことを「原初の意志」だと言っていた。原初の意志をはからいなく聞くと、「自然法爾」に、浄土へ往生する。
 
 知性と意志、どちらを貫徹させるかが問題である。フランスのモラリストの誰かが、「人間は真理に耐えられるほど強くできていない。真理を知ると死んでしまう」と言っていたが、「知性」で真理を求めると、カミュやパスカルが描いたような、不条理で、乾いた砂漠のような世界が蒸留されて、とても生きられたもんじゃないのかもしれない。僕は、現代社会のパラダイムで、知的に生きようとすれば、進化論から帰結するニヒリズムに陥って、絶望するより他ないと思う。
 人間には、知性だけではなく、生きようとする「意志」がある。知性を貫徹させると絶望する他ないが、知性よりも意志を優先して、「真理」を体得すると、絶望ではなく、希望が見えてくる。
 不滅への渇望。僕を浄土へ連れて行こうとする「意志」がある。意志を聞く。なむあみだぶつ。
 

自殺

 自殺がしたい。自殺で有名なレミングという動物は、実は自殺をしてるわけではないらしい。種の数が増えすぎて、新天地を目指して行進している最中に、崖から落ちてしまうレミングが数多くいる、ということらしい。自殺は人間の特権だと思う。
 自殺に対してアンビバレントな感情を持っていて、僕は、友達がたくさん自殺して悲しかったので、人が自殺しようと言っていたら必ず止めるが、いざ自分のことを考えると、まあ死んでもいいかな、と思う。
 昨日は「生きる勇気」という本を読んだけれど、「死ぬ勇気」という本はなぜないんだろうか。自殺教唆になるのだろうか。生きる勇気の著者は「信仰」とは「存在そのものに捉えられること」と言っていたが、それを言うなら、「自殺」とは「無そのものに捉えられること」だろう。「個の不滅」を願う信仰と、「遺伝子の死滅」を目指す自殺は、極めて人間らしい行動だ。
 人間は、「無」にさらされて生きている。潜在的な「無」が、あちらこちらに点在している。今、天井が抜けて押しつぶされて死ぬかもしれないし、心臓発作で死ぬかもしれないし、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。僕は、駅のホームが嫌いだ。電車が高速で通り過ぎるたびに、「無」が垣間見える。ふらっと「無そのものに捉えられ」そうになる。
 自殺を礼賛したい気持ちと、周りの人が死ぬのは嫌だなという気持ちが背反している。潜在的な「無」から、偶然的に引導を渡されるのではなくて、自ら「無」をつかみ取るという行為は、信仰、坐禅、という行為と共に、「純粋」である気がする。けれども他人が自殺するのは悲しい。
 存在と非存在で揺れていることを、ブッダは「無常」と言ったのだろう。存在そのものに捉えられるか、無そのものに捉えられるか、前者が信仰で、後者が自殺で、僕は、生きたいけれど、死にたい。
 矛盾を孕んで生きている。糸がもつれて、身動きがとれない。

生きてるだけで褒められたい

 最近よく聞く。「生きてるだけで褒められたい」。能力主義の社会で落ちぶれた人の怨嗟なのか、人間関係がこじれて親からも友達からも承認されない人の愚痴なのか、何もかも「疲れた」人の呟きなのか(僕はこれな気がする)、いろんな人がいろいろな事情で発している言葉なのだろうけど、時代感覚というものが現れていると思う。大人になると、誰も褒めてくれない。「何か」しないと褒めてくれない。「存在しているだけでいいよ」という承認が欲しい。一時期「バブみ」という言葉が流行ったが、ネット上では人間は幼児退行するのだと思う。自分の根源的な欲求が、他者が作ったバズったワードに乗って、ネットの海に放流される。
 生きてるだけで褒められたい。僕もそう思う。恋人なんかは存在そのものを肯定してくれる数少ない存在だと思うが、恋人は永遠ではないし、そこにいろいろな駆け引きも生まれて、純粋に肯定されるわけにはいかない。
 
 存在=愛。そういう世界は、あるにはある。「摂取不捨」という言葉がある。「何が合ってもお前を離さないぞ」という意味の言葉である。そういう世界がある。それに、気づくだけで、何かを「する」自分ではなくて、ただそこに「ある」自分が、肯定されていることを喜べる。
とにかくお慈悲の力はぬくいでなあ———————足利源左

僕らは命に囲まれている

 阿弥陀仏を中国語で意訳すると、「無量寿仏」になる。寿というのは命という意味で、「量りきれ無い命の仏」という意味である。阿弥陀仏のことを一番詳しく書いているお経を無量寿経と言う。
 量りきれない、つまり限りがない、無限ということは、僕の命も、仏の命だということである。道元禅師の言葉「この生死は、即ち仏の御いのち也」
 僕は、この自分の命が、仏の命だったと分かったとき、飛び上がるほど嬉しかったが、最近また嬉しいことに気づいた。「他の生き物」も仏の中に生きているということに気づいた。
 最近、僕は飼い猫と一緒に暮らすようになった。前は別々の部屋に暮らしていたけれど、引っ越してきた。無量寿経には、浄土へ往生できるのは「十方衆生」としか書かれていないが、平等覚経という別訳では、「蠕動の類」も往生できると書かれてある。蠕動の類とはみみずのような生き物のこと。だから僕は最近、飼い猫に念仏を聞かせてやっている。一緒に浄土に行けたらいい。
 散歩をする。鳥の鳴き声が聞こえる。雑草を踏む。花が見える。おばあちゃんとすれ違う。神社に神様がいる。みんなみんな、仏の命のなかに住んでいる。それがとても嬉しい。

なぜスピノザはかくも詰まらないのか

 スピノザのエチカを、2,3か月かけて読んだことがある。確か19歳の時だったと思う。当時はウンウン言いながら読んでいたけれど、今読んでもなんか全く面白くなくて、ページをめくる手が止まる。
 なぜ詰まらないのか。使われている概念が古かったり分かりづらかったりするのもあると思うけれど、僕にとって決定的に詰まらない理由は、次のスピノザの定義に尽きる。
定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。

 スピノザ哲学は「生の哲学」「肯定の哲学」と言われている。それは大いに結構なのだけれど、僕にとって哲学とは「死」であり「否定性」から始まるものなのだ。「死」という自己の実存の限界状況を自覚して、その「死」の光が意識に反射したものが哲学である。自己の意識が「死」という壁にぶち当たり、己を反省するようになったのが、哲学である。だから、僕にとって、スピノザのように、素朴に生を肯定するような哲学は、つまらない。肌感覚に合わない。ニーチェも生の哲学の系譜で、死についての思弁は少ないが、当人の意識が屈折しまくっているので、結構肌に合う。
 死の可能性を先駆けて、己の実存を全うする、みたいなことを言ったのはハイデガーだけれど、そのモチーフは自己意識の発展の弁証法を展開したヘーゲルあたりから始まるのだろうし、ヘーゲルの意識分析を徹底的にキリスト教的に応用したキルケゴールや、意識の対自性を分析したサルトルなど、このように、死や否定から始まる哲学をまだまだ勉強しきれていないので、めちゃくちゃ楽しみである。
 この、己を意識することのできる意識とはなんなのか。知りたい!僕にもまだ少し、欲望はある。

スピノザ ストア主義 倦怠期

愛とはその原因の観念が伴う喜びである

 これは愛の完璧な定義ではないか?「〇〇があるだけで嬉しい」ということ。何も要求していない。I want youもI need youも、愛ではない。欠如しているものを欲しがるのは、愛ではない。

 人間は「欲しがっている」ものは「欲する」ことができるけれど、「欲しがっていたもの」を「欲する」ことはできない。「こうして人生は、振り子時計のように右から左へと、苦悩から退屈へと揺れ動く(ショーペンハウアー)」
 好きな女をゲットする。欲しがっている女をゲットする。途端に、それはもう「欲しがっていた女」になってしまう。倦怠期と呼ばれるものの原因は全てこれだし、離婚する原因もほとんどこれだ。
 愛とはその原因の観念が伴う喜びである。しかし、「君がいるだけで嬉しい」という境地に達するのは、凡人には少し難しいだろう。そこで、古代ストア主義者が提唱していた、「実践的な悲観主義」というのが役に立つ。無能には、メソッドが必要である。
 悲観的な状況を、あえて想像してみよう。「あの子が病気になってしまうかもしれない」「ほんとはもう俺のことを好きじゃないのかもしれない」「永遠に続く恋愛なんてないんだ」そうすると、すでに「持っている」ものに、もう一度スポットライトが当たりだす。「今日彼女が死んでいたかもしれない、けれども彼女は生きている、俺はなんて幸せなんだろう」
 既に持っているものを喜ぶのは、かなり難しい。持っているもので「満足」してしまう生き物よりも、持っているものに「不満」を持つ生き物のほうが、生き残りやすいだろう。満足しきっている生き物は、行動する理由がないのだから。けれども現代はもう、モノが飽和しきっているので、そんな「不満」は必要ない。あえて悲観的な見方をクッションに置くことで、もう一度、自分の所有物が、輝いて見えるようになる。「これが失われたらどうしよう、いやだな、でも今は失われていないから、幸せだな」
 幸せになれる呪文がある。「眼が見えなくなったらどれほど不幸だろう。でも俺は今眼が見えている。なんて幸せなんだろう」

 自分に欠けているものを欲望するのは、愛ではない。その人がいるだけで嬉しいのが、愛である。
 

ミゲル・デ・ウナムーノを読んで

 ミゲル・デ・ウナムーノという、スペインの思想家の本を読んでいる。キルケゴールやパスカルのように、人生の本質を考え抜いている本物の思想家という感じがする。冗長で長ったらしく、同じことを何度も繰り返し書いているので読んでてうざったく感じることもあるが、それは、「全か無か」というただ一点の問いをめぐって思索している証拠だと思う。不滅の魂がなければ、人生は畢竟、無である。不滅の魂が存在するならば、人生は畢竟、全である。これを繰り返し言っている。僕もその通りだと思う。キリスト教の細かい話は読むのが少し面倒だけど、パスカルのパンセが好きな人なら、ぜひ読んだらいいと思う。意志、理性、生などがキーワード。僕もまだ200ページぐらいしか読んでいないが、3回は読むと思う。いい本だ。
 以下は要約でも感想でもなく、本を読んで考えたことを書く。

 まず面白いと思ったのが、この人は、「不滅への渇望」を、全ての人間の思考原理、行動原理においているところ。例えば、カントは純粋理性批判で神の概念を批判したが、実践理性批判で、魂の不滅と神の存在を要請した。これは人間カントが、不滅への渇望を持っていることに他ならない。スピノザは、コナトゥスという概念からも分かるように、狂おしいまでに不滅の魂を求めていたが、それを挫折せざるを得なかった。ニーチェも不滅への敗北者であり、永劫回帰という数奇な発想で不滅を復活させようとした。ニーチェにとって、「哲学」が「力への意志」であったのと同じ意味で、ウナムーノにとって、「哲学」は「不滅への渇望」である。
 ウナムーノにとって、人間はみな、「不滅への渇望」を持っている。それが現れているのが名声欲と、生殖欲である。自分の名声が後世へ残ることによって、自分は永遠化される。それが虚栄心の本質だという。僕はこの議論を読んで、古代中国人の暗殺者たちを思い出した。自分に何のメリットもないのに、暗殺をすることで、歴史に名を刻む。自分の命よりも、歴史に名が刻まれる方を優先する。有名なのが、荊軻という人らしい。司馬遷は、わざわざ暗殺者用の章をたてて、史記の一部をさいている。名を永遠化するために、人を殺す。荊軻という名前は、今も生きている。
 生殖は、言わなくても分かると思うけれど、自分の延長を作る行為だ。自分の子孫が永遠に繁栄するというファンタジーに、自己の永遠化を見る。
 ウナムーノはこの2つを挙げていたけれど、もっとあると思う。この2つ永遠化はプラトンの饗宴で述べられていたので、そこから着想を得たのかもしれない。
 全てが「不滅への渇望」と言えるかもしれない。食べ物を食べることは、自己を存続させること。セックスをするのは、自己の延長を作ること。金を稼ぐのは…。

 人間には、動物には存在しない「自我」というものがある。社会学者の真木悠介は、自我とは、クジャクの羽のように、進化の暴走によってできたものかもしれないと言っていたが、僕もそんな気がする。人間は、遺伝子に適応的な行為だけではなくて、「個体」を中心とした行為もすることができる。だから、遺伝子を後世に残すためにはなんの必要もない「自殺」という行為もすることがある。その裏返しに、遺伝子ではなく、この「個体」を永遠化しようという欲望も生まれる。
 「遺伝子」が、効率よく複製される適応的な行為は、動物的な行為といえる。その反対に、「個体」の行為を何よりも尊重させるのは、人間的な行為といえる。その意味で、「自殺(遺伝子の無化)」と「信仰(個人の不滅化)」は、極めて人間的な行為であるとともに、人間の尊厳であるのだと思う。自殺する権利と、信仰する権利が、動物と人間の一番大きな差異という気がする。
 
 虚栄心も性欲も「不滅への渇望」という主張は面白い。けれども本当の意味で個人を不滅化させるのは、信仰しかありえない。個人を不滅化させない限り、この世は夢と同じ程度の実在性を持ちえないのだとしたら、人間的に生きるには、信仰をせざるを得ないだろう。
 

握りこぶし 信仰 疑い

 弟と父親が「クローズ」のような不良漫画が好きで、家によく置いてあるので、トイレなどでたまに読むことがある。なんというタイトルの漫画か忘れたが、こういう内容のエピソードがあった。
 主人公の喧嘩相手は、父親に憎しみを抱いている。幼い頃、母子もろともアル中の父親に虐待されていて、それ以降、父親に強い憎悪を持つようになった、。母親は子供を置いて離婚し、家を出るが、形見として、子供に結婚指輪を持たせる。子供はその結婚指輪をどこかに隠そうと思ったが、結局どこへ隠すか思いつかず、自分で持っておくことにした。アル中の父親は、その指輪を売って酒代にしようと思っており、子供に指輪のありかを聞く。必死に隠そうとするが、結局自分の手の中に握っているのがばれてしまい、とられてしまう。そのときの心中のセリフ。「もっと強く握らなきゃ…強く握らなきゃ全部なくなっちまう」そのまま心を全てから閉ざしてしまう。
 なんやかんやその子供は主人公と喧嘩して負ける。そして主人公がこう言う。「いったん手を広げなきゃ、何も掴めないぜ」
 これを読んだとき、よくできたいい話だな、と思った。道元禅師の言葉を思い出す。「放てば手にみてり」手を広げれば、何もかも手に入れられる。握っている手、心を広げる。

 「疑い」というのは、心を閉じている状態だ。「騙されないぞ」と、手を握っている状態だ。その手を広げてみる。そうすると、今まで見えてなかった景色が見えてくる。
 そしてなによりも、僕たちが手を広げる前に、阿弥陀仏が、手を広げてくださっている。
生も死もすべてみ手のまんなかです————東井義雄
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