意志を聞く
中世の2大スコラ哲学者に、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスと、トマス・アクィナスがいる。ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは主意説を説いていて、トマス・アクィナスは主知説を説いている。2人とも概説書で読んだぐらいなので、詳しい議論は分からないけれど、僕は信仰の本質はヨハネス・ドゥンス・スコトゥスと同じく、「意志」が主なものだと思う。西田幾多郎も、自分の哲学、宗教論では主意説をとっている。
不合理故に我信ず、と言ったのはキリスト教神学者テルトゥリアヌスだが、「合理的」だから信じるのではなく、知性では「不合理」だけども、それでも意志を貫徹させるのが、キリスト教的な信仰であると思う。
一方、浄土真宗は、この「意志」の方向が違う。キリスト教では、神に背いたまま生きてきた自分を懺悔して、「意志」を神の方へ振り向けるのが「信仰」だが、浄土真宗の場合は、阿弥陀仏の「意志」を聞く、「お前を助けるぞ」という「意志」を聞くのが信心である。鈴木大拙は、弥陀の本願のことを「原初の意志」だと言っていた。原初の意志をはからいなく聞くと、「自然法爾」に、浄土へ往生する。
知性と意志、どちらを貫徹させるかが問題である。フランスのモラリストの誰かが、「人間は真理に耐えられるほど強くできていない。真理を知ると死んでしまう」と言っていたが、「知性」で真理を求めると、カミュやパスカルが描いたような、不条理で、乾いた砂漠のような世界が蒸留されて、とても生きられたもんじゃないのかもしれない。僕は、現代社会のパラダイムで、知的に生きようとすれば、進化論から帰結するニヒリズムに陥って、絶望するより他ないと思う。
人間には、知性だけではなく、生きようとする「意志」がある。知性を貫徹させると絶望する他ないが、知性よりも意志を優先して、「真理」を体得すると、絶望ではなく、希望が見えてくる。
不滅への渇望。僕を浄土へ連れて行こうとする「意志」がある。意志を聞く。なむあみだぶつ。
不合理故に我信ず、と言ったのはキリスト教神学者テルトゥリアヌスだが、「合理的」だから信じるのではなく、知性では「不合理」だけども、それでも意志を貫徹させるのが、キリスト教的な信仰であると思う。
一方、浄土真宗は、この「意志」の方向が違う。キリスト教では、神に背いたまま生きてきた自分を懺悔して、「意志」を神の方へ振り向けるのが「信仰」だが、浄土真宗の場合は、阿弥陀仏の「意志」を聞く、「お前を助けるぞ」という「意志」を聞くのが信心である。鈴木大拙は、弥陀の本願のことを「原初の意志」だと言っていた。原初の意志をはからいなく聞くと、「自然法爾」に、浄土へ往生する。
知性と意志、どちらを貫徹させるかが問題である。フランスのモラリストの誰かが、「人間は真理に耐えられるほど強くできていない。真理を知ると死んでしまう」と言っていたが、「知性」で真理を求めると、カミュやパスカルが描いたような、不条理で、乾いた砂漠のような世界が蒸留されて、とても生きられたもんじゃないのかもしれない。僕は、現代社会のパラダイムで、知的に生きようとすれば、進化論から帰結するニヒリズムに陥って、絶望するより他ないと思う。
人間には、知性だけではなく、生きようとする「意志」がある。知性を貫徹させると絶望する他ないが、知性よりも意志を優先して、「真理」を体得すると、絶望ではなく、希望が見えてくる。
不滅への渇望。僕を浄土へ連れて行こうとする「意志」がある。意志を聞く。なむあみだぶつ。
コメントを書く...
Comments