自殺
自殺がしたい。自殺で有名なレミングという動物は、実は自殺をしてるわけではないらしい。種の数が増えすぎて、新天地を目指して行進している最中に、崖から落ちてしまうレミングが数多くいる、ということらしい。自殺は人間の特権だと思う。
自殺に対してアンビバレントな感情を持っていて、僕は、友達がたくさん自殺して悲しかったので、人が自殺しようと言っていたら必ず止めるが、いざ自分のことを考えると、まあ死んでもいいかな、と思う。
昨日は「生きる勇気」という本を読んだけれど、「死ぬ勇気」という本はなぜないんだろうか。自殺教唆になるのだろうか。生きる勇気の著者は「信仰」とは「存在そのものに捉えられること」と言っていたが、それを言うなら、「自殺」とは「無そのものに捉えられること」だろう。「個の不滅」を願う信仰と、「遺伝子の死滅」を目指す自殺は、極めて人間らしい行動だ。
人間は、「無」にさらされて生きている。潜在的な「無」が、あちらこちらに点在している。今、天井が抜けて押しつぶされて死ぬかもしれないし、心臓発作で死ぬかもしれないし、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。僕は、駅のホームが嫌いだ。電車が高速で通り過ぎるたびに、「無」が垣間見える。ふらっと「無そのものに捉えられ」そうになる。
自殺を礼賛したい気持ちと、周りの人が死ぬのは嫌だなという気持ちが背反している。潜在的な「無」から、偶然的に引導を渡されるのではなくて、自ら「無」をつかみ取るという行為は、信仰、坐禅、という行為と共に、「純粋」である気がする。けれども他人が自殺するのは悲しい。
存在と非存在で揺れていることを、ブッダは「無常」と言ったのだろう。存在そのものに捉えられるか、無そのものに捉えられるか、前者が信仰で、後者が自殺で、僕は、生きたいけれど、死にたい。
矛盾を孕んで生きている。糸がもつれて、身動きがとれない。
自殺に対してアンビバレントな感情を持っていて、僕は、友達がたくさん自殺して悲しかったので、人が自殺しようと言っていたら必ず止めるが、いざ自分のことを考えると、まあ死んでもいいかな、と思う。
昨日は「生きる勇気」という本を読んだけれど、「死ぬ勇気」という本はなぜないんだろうか。自殺教唆になるのだろうか。生きる勇気の著者は「信仰」とは「存在そのものに捉えられること」と言っていたが、それを言うなら、「自殺」とは「無そのものに捉えられること」だろう。「個の不滅」を願う信仰と、「遺伝子の死滅」を目指す自殺は、極めて人間らしい行動だ。
人間は、「無」にさらされて生きている。潜在的な「無」が、あちらこちらに点在している。今、天井が抜けて押しつぶされて死ぬかもしれないし、心臓発作で死ぬかもしれないし、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。僕は、駅のホームが嫌いだ。電車が高速で通り過ぎるたびに、「無」が垣間見える。ふらっと「無そのものに捉えられ」そうになる。
自殺を礼賛したい気持ちと、周りの人が死ぬのは嫌だなという気持ちが背反している。潜在的な「無」から、偶然的に引導を渡されるのではなくて、自ら「無」をつかみ取るという行為は、信仰、坐禅、という行為と共に、「純粋」である気がする。けれども他人が自殺するのは悲しい。
存在と非存在で揺れていることを、ブッダは「無常」と言ったのだろう。存在そのものに捉えられるか、無そのものに捉えられるか、前者が信仰で、後者が自殺で、僕は、生きたいけれど、死にたい。
矛盾を孕んで生きている。糸がもつれて、身動きがとれない。
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