スピノザ ストア主義 倦怠期
愛とはその原因の観念が伴う喜びである
これは愛の完璧な定義ではないか?「〇〇があるだけで嬉しい」ということ。何も要求していない。I want youもI need youも、愛ではない。欠如しているものを欲しがるのは、愛ではない。
人間は「欲しがっている」ものは「欲する」ことができるけれど、「欲しがっていたもの」を「欲する」ことはできない。「こうして人生は、振り子時計のように右から左へと、苦悩から退屈へと揺れ動く(ショーペンハウアー)」
好きな女をゲットする。欲しがっている女をゲットする。途端に、それはもう「欲しがっていた女」になってしまう。倦怠期と呼ばれるものの原因は全てこれだし、離婚する原因もほとんどこれだ。
愛とはその原因の観念が伴う喜びである。しかし、「君がいるだけで嬉しい」という境地に達するのは、凡人には少し難しいだろう。そこで、古代ストア主義者が提唱していた、「実践的な悲観主義」というのが役に立つ。無能には、メソッドが必要である。
悲観的な状況を、あえて想像してみよう。「あの子が病気になってしまうかもしれない」「ほんとはもう俺のことを好きじゃないのかもしれない」「永遠に続く恋愛なんてないんだ」そうすると、すでに「持っている」ものに、もう一度スポットライトが当たりだす。「今日彼女が死んでいたかもしれない、けれども彼女は生きている、俺はなんて幸せなんだろう」
既に持っているものを喜ぶのは、かなり難しい。持っているもので「満足」してしまう生き物よりも、持っているものに「不満」を持つ生き物のほうが、生き残りやすいだろう。満足しきっている生き物は、行動する理由がないのだから。けれども現代はもう、モノが飽和しきっているので、そんな「不満」は必要ない。あえて悲観的な見方をクッションに置くことで、もう一度、自分の所有物が、輝いて見えるようになる。「これが失われたらどうしよう、いやだな、でも今は失われていないから、幸せだな」
幸せになれる呪文がある。「眼が見えなくなったらどれほど不幸だろう。でも俺は今眼が見えている。なんて幸せなんだろう」
自分に欠けているものを欲望するのは、愛ではない。その人がいるだけで嬉しいのが、愛である。
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