なぜスピノザはかくも詰まらないのか
スピノザのエチカを、2,3か月かけて読んだことがある。確か19歳の時だったと思う。当時はウンウン言いながら読んでいたけれど、今読んでもなんか全く面白くなくて、ページをめくる手が止まる。
なぜ詰まらないのか。使われている概念が古かったり分かりづらかったりするのもあると思うけれど、僕にとって決定的に詰まらない理由は、次のスピノザの定義に尽きる。
スピノザ哲学は「生の哲学」「肯定の哲学」と言われている。それは大いに結構なのだけれど、僕にとって哲学とは「死」であり「否定性」から始まるものなのだ。「死」という自己の実存の限界状況を自覚して、その「死」の光が意識に反射したものが哲学である。自己の意識が「死」という壁にぶち当たり、己を反省するようになったのが、哲学である。だから、僕にとって、スピノザのように、素朴に生を肯定するような哲学は、つまらない。肌感覚に合わない。ニーチェも生の哲学の系譜で、死についての思弁は少ないが、当人の意識が屈折しまくっているので、結構肌に合う。
死の可能性を先駆けて、己の実存を全うする、みたいなことを言ったのはハイデガーだけれど、そのモチーフは自己意識の発展の弁証法を展開したヘーゲルあたりから始まるのだろうし、ヘーゲルの意識分析を徹底的にキリスト教的に応用したキルケゴールや、意識の対自性を分析したサルトルなど、このように、死や否定から始まる哲学をまだまだ勉強しきれていないので、めちゃくちゃ楽しみである。
この、己を意識することのできる意識とはなんなのか。知りたい!僕にもまだ少し、欲望はある。
なぜ詰まらないのか。使われている概念が古かったり分かりづらかったりするのもあると思うけれど、僕にとって決定的に詰まらない理由は、次のスピノザの定義に尽きる。
定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。
スピノザ哲学は「生の哲学」「肯定の哲学」と言われている。それは大いに結構なのだけれど、僕にとって哲学とは「死」であり「否定性」から始まるものなのだ。「死」という自己の実存の限界状況を自覚して、その「死」の光が意識に反射したものが哲学である。自己の意識が「死」という壁にぶち当たり、己を反省するようになったのが、哲学である。だから、僕にとって、スピノザのように、素朴に生を肯定するような哲学は、つまらない。肌感覚に合わない。ニーチェも生の哲学の系譜で、死についての思弁は少ないが、当人の意識が屈折しまくっているので、結構肌に合う。
死の可能性を先駆けて、己の実存を全うする、みたいなことを言ったのはハイデガーだけれど、そのモチーフは自己意識の発展の弁証法を展開したヘーゲルあたりから始まるのだろうし、ヘーゲルの意識分析を徹底的にキリスト教的に応用したキルケゴールや、意識の対自性を分析したサルトルなど、このように、死や否定から始まる哲学をまだまだ勉強しきれていないので、めちゃくちゃ楽しみである。
この、己を意識することのできる意識とはなんなのか。知りたい!僕にもまだ少し、欲望はある。
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