求道 機と法について | 人生入門

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再来年中に読むもの
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求道 機と法について

 浄土真宗では、「機」と「法」という言葉が非常に重要な意味を持っている。求道の上でも、これほど重要な言葉はない。「機」というのは自分の心という意味で、「法」というのは、弥陀佛のお助けのことである。これが一つになることを「機法一体」と言う。自己と阿弥陀が一体になり、お助けが決定したことになる。
 「機」と「法」がごちゃごちゃ問題になりだしたのは、恐らく明治以後の辺りで、親鸞聖人や蓮如上人は、そこまで細かく機と法の関係を分析しているわけではない。
 ここで事態を物凄くややこしくしているのが、この「機」というのは、宗教的な意味と、倫理的な意味の2つの意味で使われることがあるということである。疑いというレベルで「機」という言葉が扱われることと、煩悩というレベルで「機」という言葉が扱われることがある。親鸞は歎異抄で「善人よりも悪人が救われる」と説いたが、これは「煩悩」のレベルの「機」の話で、「疑い」のある「機」が救われると言ったわけではない。ここが非常に誤解されている。お坊さんでも、疑心往生を説いている人が多い。
 
 信者めぐりという有名な本があるのだが、その本によく出てくる言葉に「もったまんまの幸せ」という言葉がある。これは「機」がどれだけ疑いでもつれていても、「法」がしっかりとしているので、「そのまま助かる」という主張である。求道していない人にとっては、「阿弥陀仏なんて心の中にしかいない(認識できない)んだから、機のほうで阿弥陀仏を危うんでいるなら、法のお助けもなくなるのでは?」と思う人もいるだろうが、どういう原理か、自分の機がもつれていても、「お助け」はそのまま照っているという状況は実際にある。「ほんまかなあ」と思いつつ、「お助けの光」を受けているような状態。これを信者めぐりは「持ったまんまの幸せ」と言ったのだと思う。
 これを批判する人は、これを法体募りというだろう。僕もそうであると思う。機に仏智が満入しなければ、信心決定とは言えない気がする。
 
 最近読んでいる大沼法龍師は、これを20願の分際だと言う。法のお手元は確かでも、機の方がぐずぐずなのは、まだ信心が決定していない。20願から、18願に転入しなければならない。けれども、自力でこの「なんともならない機」を「はい、助かります」と言わせることはできない。この「機」はどうにもならない。僕は現在、20願の分際であると思う。けれども「法のお手元」は疑っていないので、「もったまんまの幸せ」と自分を撫でつけることはできる。だけれどそれでいいのかなあという気持ちがある。焦ってもしょうがないけど、早く助かりたい。
 信仰の難しいところは、こういう理屈は分かっても、本当に自分で体験しないと意味がないところだ。

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