人生入門

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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

一歩も動けない

 「人間は死ぬ」という一点。もっと具体的に言えば「僕は死ぬ」という一点から一歩も動けていない。それを死刑囚と言ってもいいし、癌患者と言ってもいいけれど、人間は全員罪人だし病人だ。「人間は死ぬ」この一言の前に、後に、何か付け足すことがあるだろうか?
 今年はサルトル、ハイデガー、ショーペンハウアーなどを読んだけれど、ハイデガーが存在への通路へ使うために使っているだけで、「人間は死ぬ」ということなど何も書かれてなかった。「人間は死ぬ」は前提であり、そこから出発していない本などは、パン一枚の値打ちもない。僕はそこから出発している本を、シーシュポスの神話、パンセ、人みな骨になるならば、懺悔、シオラン、などしか知らないけれど、これこそ「本」というべきもので、それ以外は「お喋り」である。
 本当に一歩も動けないのだ。自分の足場、直径30センチだけが明るくなっていて、他は全て真っ暗。「人間は死ぬ」という前提から一歩も動けない。これは「前提」であって「結論」ではない。しかし、これが「結論」になっている人が、くだらないお喋りを繰り返すのだろう。僕はこれが一歩も動けない「前提」になっている本でないと、本とは認めない。思想とは認めない。
 「人間は死ぬ」この一点。どうしようもない一点。そこから一歩踏み出す。どこかで見た比喩で言えば、目の前のドアが全て開いていく。そういう言説だけが言説の名に値するのであって、僕は、人間のお喋りが嫌いだ。

傲慢

 あんまり自分の弱みとか書きたくないんだけれど、周知の事実だろうから書く。僕は傲慢である。
 「傲慢は何があろうと必ずどこかで元を取る。虚栄を捨てる時さえ、少しも損をしないですませる。」
 これはロシュフコー
 ニーチェのアフォリズムにも「傲慢さが許せないのは自分が傲慢だからだ」というのがあった。
 
 信仰者に一番あってはならないのが「傲慢」なんだけれど、僕は傲慢である。具体的に言うと、自分を賢いと思っている。自分が正しいと思っている。だから、他人の傲慢が許せない。「虚栄を捨てるそぶり」さえ、許せない。「僕はこんなに賢いですよ」というのも許せないし、「僕はこんなに賢いので傲慢をこんなに上手く隠せますよ」というのも許せない。
 
 ポーズではなく、根っこから謙虚になりたい。他人の傲慢さも許せるようになりたい。昔よりはよくなったけど、今でも「こいつバカのくせになんで自分のこと賢いと思ってるんだ?」とか思ってしまう。どうしようもない。心根から腐ってるので、それを隠すことしかできない。心は蛇蠍の如くなり。

 だから僕と同じ「自分のことを賢いと思っているバカ」な人とは友達になれないと思う。少なくとも僕はそういう人が嫌いだ。僕は素朴な人が好きだ。

 思えば僕はずっと傲慢だった。一生治らないのかもしれない。それでも18願は僕の煩悩の形に合わせて作られたらしい。念仏してたら謙虚になれると思っていたけれど、謙虚になれないから念仏をするしかないのかもしれない。

悟りと念仏と救いと

 この前買った前田慧雲師語録には、禅の悟りとは万物一体を感じることだと書いてあった。これを現代スピリチュアルで「ワンネス」というんだけれど、このワンネスが果たして救いになるのかどうかわからない。自分が死んで、世界だけになる。そういう風景だと思う。
 悟りには大別して「ワンネス」タイプと「無常」タイプがあると思う。無常タイプというのは集中力と気づきを研ぎ澄ませることで、ナーマ(心)とルーパ(体)をハッキリ区別し、ルーパの、無常で、普通では感知できない「隙間」を観るというものだ。ここで無常、無我、苦がハッキリと観察でき、煩悩が滅せられるという。それを涅槃という。

 無常タイプはテーラワーダ仏教の悟りである。お坊さんが語る死、みたいな本にテーラワーダのお坊さんが死ぬところが描写されていたのだが、自らの「無我」を知っているため、一切恐れがないらしい。その本を書いたお坊さんと個人的に会って「死ぬのが怖いんですけど…」と相談してみたことがあるんだけれど、そのときは「死は今ここにはない。死のイメージを作らないように、サティ(気づき)を養いなさい」と言われた。僕はなんとなく、誤魔化された気がした。
 テーラワーダ仏教は、完全な「死」を志向しているといってもいいと思う。生物は六道輪廻する。だから煩悩とカルマを滅して、完全な「無」になろう。僕はこれが救いだとは思えなかった。

 そこでアドヴァイタや禅に興味を持ったのだけれど、アドヴァイタには多少希望があった。この「身体」は自分ではなく、身体を超えている意識が「真我」であり、それは生まれることも死ぬこともない。これはよくスクリーンの比喩で言われる。この身体や見ている世界は映画の中の登場人物や風景のようなものだ。けれど、本当の「自己」はスクリーンのほうにある。登場人物である「小我」が死んでも、スクリーンである「大我」は生きている。禅は言語化が嫌いなので、何冊読んでも禅の悟りがなんなのかよくわからないけれど、僕の見るところ、アドヴァイタの悟りとほとんど変わらないと思う。現に鈴木俊隆も著書の中でスクリーンの比喩を用いていた。でも結局「この僕」が死ぬのに、それは救いなのか?永遠なのか?永遠を「見た」だけじゃないのか?沢木興道もこう言っている。「われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。」

 「この僕」が「永遠」にならなければ救いではないんじゃないか?僕は救いには永遠というファクターが必要だと思うけれど、悟りの場合、「この僕」は永遠にはならない。本当の自己であるスクリーンが永遠になる。父母未生以前の本来の面目が永遠である。

 48願の中に、こういうのがある。
「たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。」自分の過去世の記憶を全部思い出すことができる。それは「この僕」のアイデンティティが最高潮にまで高まるということだ。「この僕」が永遠になる。それは念仏の道しかないと思う。

 救いというのは悟りではなく、往生だ。

夢日記

 終業式か、卒業式のような、何かの終わりの式の日のことだったと思う。グループで分かれて、校舎全体を掃除するよう、先生に指示された。僕は3人グループの中に入れられたのだけれど、他の2人はどちらも知的障碍者だった。DくんとMくんとしよう。Dくんがどこを掃除するか指示された紙を持っていたので、それをチラ見すると、緑色の芝がうつっていたので、裏庭か校庭だな、と思った。けれどDくんに聞くと、違うという。じゃあどこなんだ、と聞くと分からない、という。知らないうちにDくんはチラシを無くしていた。どこなんだ、わからない、のやりとりを10分ぐらい続けているうちに、だんだんこの知的障碍者が憎くなってきて、箒の柄でおでこを殴ってしまった。血が出た。Dくんは泣き出して、先生に言いつけた。僕はこっぴどく叱られた。
 みんな、校庭で集会をしていた。そこにこっそり忍び込んだ。僕が暴力を振るったのはみんなに知れ渡っているみたいで、みんなから白い眼で見られた。友達のRくんが目線で何か合図を送ってきたので、箒で殴るジェスチャーをした。Rくんは笑っていたが、少し僕のことを恐れていた気がする。
 集会の後、帰宅際、僕のほうを見てひそひそ言っている女子がいたので、「10分も知的障碍者と対話してたら頭おかしくなるよ。誰だって頭おかしくなるよ。僕のせいじゃない。」と叫んだ。

 眼が覚めた。なんだか犯罪者になった気分だった。

蝉の死骸と百合の花

 上を向いて歩こうという歌があるが、僕は猫背なので、いっつも下を向いて歩いている。いつものように130円でペットボトルコーラが買える自販機へ歩いていると、小道に、蝉の死骸が落ちていた。僕はそんな残酷な人間でもないし、聖人でもないので、踏みつけることもなく、合掌することもなく、その場を過ぎた。蝉の死骸を見たことのある人ならわかると思うけれど、命の切なさ、儚さみたいなものをまざまざと感じさせられる。思わず心の中で「お疲れ様」とでも言いたくなる。いっつもうるさいのは多分君だったんだろうけれど、精いっぱい生きてて、本当に偉い。
 その直後に、目の前のコンクリートの段差に、バカでかい百合の花が咲いていた。なんか、蝉の死がそのまま百合の命になったように感じて、厳粛な気分になった。蝉の死骸も、土になって、また、何かの命になるのだと思う。百合の花は、花の重みで、お辞儀をしているみたいだった。
 生死一如という仏教語が頭に浮かんだ。死にも何か、尊厳と言ったら大げさだけれど、死にもきっと、何かがある。蝉の死骸も、百合の花も、僕も、大きい命の中で、蠢いている、衆生だ。
 百合の花に一礼をして、念仏をしながら大通りに出た。僕は、命という言葉が好きだ。
 

 親の財布から140円パクッて三ツ矢サイダーを買いに外に出た。こういうとき、「ふと」という副詞が降ってくることがある。自分の自我で見ようと思っても星は降ってこない。「ふと」という副詞と一緒に夜空は眼前に降りてくる。月を見ると、淡いぼやけた丸が発光しているだけで、形が分からなかった。自分でも気づかなかったが、僕の目には涙が溜まっていた。月の形が知りたくて、眼をこすっても、こすればこするほど涙が出てきて、月はぼやけたままだった。教えてくれる人もいなかった。
 涙のレンズを通して見た星空は、荘厳な光のかたまりだった。「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」というカントの言葉(こんな正確にではないが)と、「超日月光」というお経の言葉を思い出した。地球が宇宙の中心でなくなってどれほどたったのだろう。それでも、月は僕を優しく照らす。
 夜空の闇があるから、月の光があるんだろう。僕にどうしようもない煩悩の闇があるから、無碍光如来がいるんだろう。僕は小声で念仏をした。
 念仏をしながら歩いて帰った。子供のような懐かしい気持ちになった。ふと、仏の光の中にいるような気がした。

僕はただの田舎の少年で

 吉本隆明が、芥川龍之介を評して「下町の坊主が、どうやって文学をやればいいかが、僕たちの課題だったんですよ」と言っていたのが妙に頭にこびりついている。
 僕の町は、人口が数千人しかいない。それも年々減っていって、僕の子供の頃より千人ぐらい減ったんじゃないか。とにかく田舎の男だ、僕は。
 海があって山があって、神社があって、祭りがあって、僕はそういう所に生きているけれど、ネットの人たちは、そういう所に生きていない。
 僕は東京人だ。人と喋るときはいつも標準語だし、「どこに住んでると思う?」と聞くと、必ず「絶対東京でしょ」と言われる。本当は広島のド田舎なんだけれど。

 久々に家族と話したり、地元の人間と話すと、自分の「土着性」みたいなものを思い出して嫌になる。僕は、こんな田舎に住んでいる人間ではなくて、東京に住んでいて、らき☆すたのアイコンでツイッターをしている、透明な人間なのに。家族や地元の人と話すと、僕に「色」が着く。それがたまらなく不愉快だ。

 都会の人間は色がない。「垢ぬける」という表現があるけれど、僕には普段自分では見ないようにしている「垢」がたくさんついていて、関東の人間は透明な人間ばかりなので、疎外感を感じてしまう。

 僕はただの田舎の少年で。だから僕は、この町が嫌いだ。

念仏者と虚無主義者の対話

「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」

『なんだ、久しぶりに来たら、なんだそれは、念仏か?お前も落ちぶれたものだな。びっくりだよ。宗教なんかに凝ってるのか?』

「そうだよ、君も一緒にどうだい、なんまんだぶ」

『絶対に嫌だね。カミュとドーキンスを信奉してたお前に一体何があったんだよ。引きこもりすぎて頭が変になっちまったのか?俺はよく知らないんだが、念仏すると一体どういう功徳があるんだ?』

「念仏すると、浄土へ行けるのさ」

『そりゃ結構な話だな。じゃあ俺も一つ。南無阿弥陀仏。これでいいのか?』

「それじゃ無理だよ。阿弥陀仏を信じてなきゃ駄目なんだ。」

『じゃあ俺には一生無理だね。なあお前、ほんとにどうしたんだ?死後は無なんじゃなかったのかよ。人間は遺伝子の乗り物じゃなかったのか?』

「僕は何も知らないよ。南無阿弥陀仏。」

『じゃあ教えてやるよ。人間の同一性はな、記憶で担保されてるんだ。だから死んで、脳みその海馬がイカれちまうと、記憶も全部なくなる。ということはその人はこの世からもあの世からもいなくなるんだ。だから輪廻なんてものもない。記憶がぶち壊れるんだから。』

「そうかそうか。そういう考え方もあるんだな。」

『お前が言ってたことじゃないか。人間の精神は脳に完全に依拠している。脳が死ねば———無だ。』

「そんなことはないさ、ご信心を頂けば、極楽鳥の飛んでいる浄土へ往生できるんだ。」

『迷信だね。信じれば事実になるのは当たり前じゃないか。あのな、そりゃ信じれば事実になるよ。でもそれは信じている人にしか事実じゃないんだ。現に世界にたくさんの宗教があって、それぞれの信じている事実があるじゃないか。信じれば事実だよ。俺も死後は無だと信じているから事実だ。信じればなんでも事実だよ。でもそれはお前の主観の中だけの話だ。』

「君はこの南無阿弥陀仏が聞こえないのかい。」

『聞こえるとも』

「これはお前を助けるぞと呼んでいる呼び声なんだ」

『馬鹿々々しい。お前が喋っているだけじゃないか。そもそもその阿弥陀ってのはどんな神様なんだ。』

「神様じゃなくて、仏だよ。哲学的に言えば、真如だね。」

『真如?』

「真理そのものという意味さ。」

『人間が、真理そのものを仮定したんだろ。』

「禅などでは、実際に体得している人もいるけどね」

『それは脳の変性意識だろう。ドラッグなどでも同じ状態になるんだから』

「ああいえばこういう奴だなあ。君は南無阿弥陀仏が聞こえないのかい」

『聞こえないね』

「可哀そうな奴だな」

『お前のほうが、可哀そうだよ。死ねば無だ。お前は逃げているだけだ。現実逃避だ。背後世界なんかないんだよ、お前の好きなニーチェも言ってただろ』

「ニーチェか、懐かしいな。もう僕は疲れたよ。なんまんだぶ、なんまんだぶ。」

『勝手にしてくれ。俺は少し見損なったよ。じゃあな、お元気で。人間は、進化のアルゴリズムで生まれた、遺伝子の乗り物だよ。』

「そうかい、お前も早く気づいてくれよ、南無阿弥陀仏」

自殺をしてはいけない理由

 釈尊は人間には2つの欲があるといった。有愛と無有愛である。有愛というのは「生きようとする意志」で、無有愛というのは「自殺しようとする意志」のことである。2000年以上も前に、無有愛というものを説いているのは、やはりただものじゃないなあと思う。人間心理のプロフェッショナルである。
 2000年後ぐらいにフロイトがエロスとタナトスという概念で、同じことを言った。人間にはタナトスという死のうとする意志がある。

 人間には全員タナトスが備わっている。即ち人間は全員自殺願望がある。欲求のないところに禁止はない。人間が全員「自殺したい」と思っているからこそ、「自殺してはいけない」という禁止事項ができた。しかしその禁止事項は「汝、殺すなかれ」という禁止と一緒で、「根拠」がない。だから抜けようと思えばいくらでも抜けられる。禁止の柵がガバガバで、「向こう」にまで行くことは誰にでもできる。

 「自殺してはいけない」というのは暗黙の了解だ。みんなタナトスを持っているけれど、自殺してはいけない。だからその掟を破って、自殺して「救済」される人間は、「裏切者」だ。僕は「ずるい」と思う。みんな自殺願望を持ちながらも禁止をバカ真面目に受け取っているのだから、「いちぬけた」をするのは「ずるい」と感じる。

 自殺をしてはいけない理由。それは「ずるい」からだ。

ショーペンハウアー 意志 信仰

 最近、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を数年ぶりに読んでいる。面白い。今は3巻を読んだばかりなのだけれど、考えたことがあるので書く。
 ショーペンハウアーは、世界は表象と意志で出来ているという。どちらが根源的かと言えば、意志である。ショーペンハウアーは無機物にも植物にも意志を認めている。地球が何十億年か前に出来て、様々な無機物の意志が互いを欲望していた。そのうちに、微生物が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれた。ショーペンハウアーは、「表象」の誕生を「眼」に置いている。つまり眼がある生物が生まれたときに、主観と客観がそろった世界が生まれた。
 無機物も有機物も、生きんとする意志を持っている。その意志に「奉仕」するために「認識器官」が進化し、表象というものが生まれた。ウナムーノも書いていたと思うが、「認識」とは「意志」に奉仕するためにある。根源には生きようとする盲目的な「意志」がある。知性や認識は意志の「道具」でしかない。
 意志と表象としての世界の4巻はこの意志を滅する方向へ向かうっぽいが、そうでなくても、この「生きようとする意志」を丸々肯定することもできると思う。信仰とは意志だ。「永遠に生きていたい」という意志と「全ての衆生を浄土へ迎えたい」という法蔵菩薩の意志は一致する。まだ「認識」を持っていない植物にも、生きようとする意志はあるだろう。法蔵菩薩の願いは植物にも届いている。

 認識、表象、の「前」に「意志」がある。そこを掴む。そこが信仰で、そこが真理だ。
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