蝉の死骸と百合の花
上を向いて歩こうという歌があるが、僕は猫背なので、いっつも下を向いて歩いている。いつものように130円でペットボトルコーラが買える自販機へ歩いていると、小道に、蝉の死骸が落ちていた。僕はそんな残酷な人間でもないし、聖人でもないので、踏みつけることもなく、合掌することもなく、その場を過ぎた。蝉の死骸を見たことのある人ならわかると思うけれど、命の切なさ、儚さみたいなものをまざまざと感じさせられる。思わず心の中で「お疲れ様」とでも言いたくなる。いっつもうるさいのは多分君だったんだろうけれど、精いっぱい生きてて、本当に偉い。
その直後に、目の前のコンクリートの段差に、バカでかい百合の花が咲いていた。なんか、蝉の死がそのまま百合の命になったように感じて、厳粛な気分になった。蝉の死骸も、土になって、また、何かの命になるのだと思う。百合の花は、花の重みで、お辞儀をしているみたいだった。
生死一如という仏教語が頭に浮かんだ。死にも何か、尊厳と言ったら大げさだけれど、死にもきっと、何かがある。蝉の死骸も、百合の花も、僕も、大きい命の中で、蠢いている、衆生だ。
百合の花に一礼をして、念仏をしながら大通りに出た。僕は、命という言葉が好きだ。
その直後に、目の前のコンクリートの段差に、バカでかい百合の花が咲いていた。なんか、蝉の死がそのまま百合の命になったように感じて、厳粛な気分になった。蝉の死骸も、土になって、また、何かの命になるのだと思う。百合の花は、花の重みで、お辞儀をしているみたいだった。
生死一如という仏教語が頭に浮かんだ。死にも何か、尊厳と言ったら大げさだけれど、死にもきっと、何かがある。蝉の死骸も、百合の花も、僕も、大きい命の中で、蠢いている、衆生だ。
百合の花に一礼をして、念仏をしながら大通りに出た。僕は、命という言葉が好きだ。
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