悟りと念仏と救いと
この前買った前田慧雲師語録には、禅の悟りとは万物一体を感じることだと書いてあった。これを現代スピリチュアルで「ワンネス」というんだけれど、このワンネスが果たして救いになるのかどうかわからない。自分が死んで、世界だけになる。そういう風景だと思う。
悟りには大別して「ワンネス」タイプと「無常」タイプがあると思う。無常タイプというのは集中力と気づきを研ぎ澄ませることで、ナーマ(心)とルーパ(体)をハッキリ区別し、ルーパの、無常で、普通では感知できない「隙間」を観るというものだ。ここで無常、無我、苦がハッキリと観察でき、煩悩が滅せられるという。それを涅槃という。
無常タイプはテーラワーダ仏教の悟りである。お坊さんが語る死、みたいな本にテーラワーダのお坊さんが死ぬところが描写されていたのだが、自らの「無我」を知っているため、一切恐れがないらしい。その本を書いたお坊さんと個人的に会って「死ぬのが怖いんですけど…」と相談してみたことがあるんだけれど、そのときは「死は今ここにはない。死のイメージを作らないように、サティ(気づき)を養いなさい」と言われた。僕はなんとなく、誤魔化された気がした。
テーラワーダ仏教は、完全な「死」を志向しているといってもいいと思う。生物は六道輪廻する。だから煩悩とカルマを滅して、完全な「無」になろう。僕はこれが救いだとは思えなかった。
そこでアドヴァイタや禅に興味を持ったのだけれど、アドヴァイタには多少希望があった。この「身体」は自分ではなく、身体を超えている意識が「真我」であり、それは生まれることも死ぬこともない。これはよくスクリーンの比喩で言われる。この身体や見ている世界は映画の中の登場人物や風景のようなものだ。けれど、本当の「自己」はスクリーンのほうにある。登場人物である「小我」が死んでも、スクリーンである「大我」は生きている。禅は言語化が嫌いなので、何冊読んでも禅の悟りがなんなのかよくわからないけれど、僕の見るところ、アドヴァイタの悟りとほとんど変わらないと思う。現に鈴木俊隆も著書の中でスクリーンの比喩を用いていた。でも結局「この僕」が死ぬのに、それは救いなのか?永遠なのか?永遠を「見た」だけじゃないのか?沢木興道もこう言っている。「われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。」
「この僕」が「永遠」にならなければ救いではないんじゃないか?僕は救いには永遠というファクターが必要だと思うけれど、悟りの場合、「この僕」は永遠にはならない。本当の自己であるスクリーンが永遠になる。父母未生以前の本来の面目が永遠である。
48願の中に、こういうのがある。
「たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。」自分の過去世の記憶を全部思い出すことができる。それは「この僕」のアイデンティティが最高潮にまで高まるということだ。「この僕」が永遠になる。それは念仏の道しかないと思う。
救いというのは悟りではなく、往生だ。
悟りには大別して「ワンネス」タイプと「無常」タイプがあると思う。無常タイプというのは集中力と気づきを研ぎ澄ませることで、ナーマ(心)とルーパ(体)をハッキリ区別し、ルーパの、無常で、普通では感知できない「隙間」を観るというものだ。ここで無常、無我、苦がハッキリと観察でき、煩悩が滅せられるという。それを涅槃という。
無常タイプはテーラワーダ仏教の悟りである。お坊さんが語る死、みたいな本にテーラワーダのお坊さんが死ぬところが描写されていたのだが、自らの「無我」を知っているため、一切恐れがないらしい。その本を書いたお坊さんと個人的に会って「死ぬのが怖いんですけど…」と相談してみたことがあるんだけれど、そのときは「死は今ここにはない。死のイメージを作らないように、サティ(気づき)を養いなさい」と言われた。僕はなんとなく、誤魔化された気がした。
テーラワーダ仏教は、完全な「死」を志向しているといってもいいと思う。生物は六道輪廻する。だから煩悩とカルマを滅して、完全な「無」になろう。僕はこれが救いだとは思えなかった。
そこでアドヴァイタや禅に興味を持ったのだけれど、アドヴァイタには多少希望があった。この「身体」は自分ではなく、身体を超えている意識が「真我」であり、それは生まれることも死ぬこともない。これはよくスクリーンの比喩で言われる。この身体や見ている世界は映画の中の登場人物や風景のようなものだ。けれど、本当の「自己」はスクリーンのほうにある。登場人物である「小我」が死んでも、スクリーンである「大我」は生きている。禅は言語化が嫌いなので、何冊読んでも禅の悟りがなんなのかよくわからないけれど、僕の見るところ、アドヴァイタの悟りとほとんど変わらないと思う。現に鈴木俊隆も著書の中でスクリーンの比喩を用いていた。でも結局「この僕」が死ぬのに、それは救いなのか?永遠なのか?永遠を「見た」だけじゃないのか?沢木興道もこう言っている。「われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。」
「この僕」が「永遠」にならなければ救いではないんじゃないか?僕は救いには永遠というファクターが必要だと思うけれど、悟りの場合、「この僕」は永遠にはならない。本当の自己であるスクリーンが永遠になる。父母未生以前の本来の面目が永遠である。
48願の中に、こういうのがある。
「たとえわたしが仏になることができても、わたしの国の天人や人々、宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、わたしは決して仏になりません。」自分の過去世の記憶を全部思い出すことができる。それは「この僕」のアイデンティティが最高潮にまで高まるということだ。「この僕」が永遠になる。それは念仏の道しかないと思う。
救いというのは悟りではなく、往生だ。
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