ショーペンハウアー 意志 信仰
最近、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を数年ぶりに読んでいる。面白い。今は3巻を読んだばかりなのだけれど、考えたことがあるので書く。
ショーペンハウアーは、世界は表象と意志で出来ているという。どちらが根源的かと言えば、意志である。ショーペンハウアーは無機物にも植物にも意志を認めている。地球が何十億年か前に出来て、様々な無機物の意志が互いを欲望していた。そのうちに、微生物が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれた。ショーペンハウアーは、「表象」の誕生を「眼」に置いている。つまり眼がある生物が生まれたときに、主観と客観がそろった世界が生まれた。
無機物も有機物も、生きんとする意志を持っている。その意志に「奉仕」するために「認識器官」が進化し、表象というものが生まれた。ウナムーノも書いていたと思うが、「認識」とは「意志」に奉仕するためにある。根源には生きようとする盲目的な「意志」がある。知性や認識は意志の「道具」でしかない。
意志と表象としての世界の4巻はこの意志を滅する方向へ向かうっぽいが、そうでなくても、この「生きようとする意志」を丸々肯定することもできると思う。信仰とは意志だ。「永遠に生きていたい」という意志と「全ての衆生を浄土へ迎えたい」という法蔵菩薩の意志は一致する。まだ「認識」を持っていない植物にも、生きようとする意志はあるだろう。法蔵菩薩の願いは植物にも届いている。
認識、表象、の「前」に「意志」がある。そこを掴む。そこが信仰で、そこが真理だ。
ショーペンハウアーは、世界は表象と意志で出来ているという。どちらが根源的かと言えば、意志である。ショーペンハウアーは無機物にも植物にも意志を認めている。地球が何十億年か前に出来て、様々な無機物の意志が互いを欲望していた。そのうちに、微生物が生まれ、植物が生まれ、動物が生まれ、人間が生まれた。ショーペンハウアーは、「表象」の誕生を「眼」に置いている。つまり眼がある生物が生まれたときに、主観と客観がそろった世界が生まれた。
無機物も有機物も、生きんとする意志を持っている。その意志に「奉仕」するために「認識器官」が進化し、表象というものが生まれた。ウナムーノも書いていたと思うが、「認識」とは「意志」に奉仕するためにある。根源には生きようとする盲目的な「意志」がある。知性や認識は意志の「道具」でしかない。
意志と表象としての世界の4巻はこの意志を滅する方向へ向かうっぽいが、そうでなくても、この「生きようとする意志」を丸々肯定することもできると思う。信仰とは意志だ。「永遠に生きていたい」という意志と「全ての衆生を浄土へ迎えたい」という法蔵菩薩の意志は一致する。まだ「認識」を持っていない植物にも、生きようとする意志はあるだろう。法蔵菩薩の願いは植物にも届いている。
認識、表象、の「前」に「意志」がある。そこを掴む。そこが信仰で、そこが真理だ。
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