人生入門

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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

つまらない

 昨日女の子と通話してると「一日8時間拘束されて、家に帰ってきて、疲れて寝て、ベッドの中で、なんかこんなものなのかなって思うことがよくある」と言っていた。僕の辞書の「人生」の項目にこれを付けたそう。「つまらない」
 「つまらない」とは苦そのものともいえるけど、生老病死の中には入ってない。「つまらない」の上に生老病死や愛別離苦が乗ってるんじゃないか。つまらない上に苦しみがあるから最悪だ。
 僕の好きな本に、倉田百三の「法然と親鸞の信仰」という本があるのだけれど、3つの苦しみの類型を挙げている。「解ればするのに」「できればするのに」「やってもつまらない」の3つである。何も分からない、分かったところで何もできない、何かできたところでつまらない。科学的真理と言ったって仮説的なものだ、全ての生物はいずれ死滅する―ニヒルだ。

 つまらない。この一句で死ぬ人もたくさんいると思う。人生はつまらない。誰にとってもつまらない。
 なぜつまらないかと言えば、それは世の中のものは全て「相対的」なものだからだと思う。追い求める価値のないものだ。「つまる」というのは「決着がつく」という意味らしい。絶対的な「つまる」ものに会う必要がある。人生に決着をつける必要がある。でなければ本当につまらない。死ねない。
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし———————親鸞

 

なぜ生きるのか

 「なぜ生きるのかは自分的には決着が着いた」というと「教えてほしい」と言われる。宗教というのは変わったもので、中にいる人には「普遍的」なものだが、外にいる人にとっては「特殊的」なものである。信仰をしている僕にとっては「南無阿弥陀仏」は世界を包んでいる無限なものだが、信仰をしていない人にとっては数ある宗教の一つにしかすぎないだろう。
 だから僕は「できるだけ仏教語を使わずに浄土教を語ってみたい」という清沢満之の初期の目論見がものすごく分かる。「外」にいる人にも説明したいし、興味を持ってもらいたい。その清沢満之は、宗教は「有限と無限の一致」だと言った。この言葉を味わおうと思う。
 有限という言葉を翻訳すると、「死すべき存在」「罪ある存在」「無知なる存在」等々になるだろう。無限という言葉を翻訳すると、「永遠な存在」「無垢な存在」「全知の存在」になるだろう。これが一致する。少なくとも一致した自覚ができる。それが宗教であると。

 有限な存在は、不安な存在である。いつ無常の風に吹かれるか分からない。その有限な存在が、無限な存在と一致した自覚ができる。そこに強烈な「意味感」が現れる。
 なぜ生きるのか?それは無限者と出会うためである。無限者と出会うとどうなるのか?「安心」できる。一時の安心ではなく、「永遠」にすえとおる「安心」である。これで答えになってるだろうか?

孤独

 孤独は人を殺す。友人に自殺志願者が多いので自殺予防の新書を何冊が読んだのだが、自殺の一番の原因は孤独だと書いてあった。つまり孤独という虫に噛まれると人間は死んでしまう。日本では年間3万人が孤独という害虫に殺されている。
 独生独死独去独来と無量寿経に書いてある通り、人間は「本質的に」孤独だ。これをある和上は「カプセル」に入っていると言っていた。身体というカプセルに入っている以上人間の孤独は真に癒えることはない。相手の考えていることも分からないし、自分の考えも相手に伝わらない。だからカプセルに入って来てくれる超越者を信仰しようという話なのだけれど、今日は宗教の話を書く気分じゃない。

 8年間溜まってきた孤独のフラストレーションが、一気に噴き出してきたような感じで、家族とすら顔を合わさず、誰とも会話をしない状況に発狂しそうになっている。毒虫が心臓に食らいついているので本なんか読めたもんじゃなく、ただただ毒が回って希死念慮におかされている。死にたい。人間の「本質」に孤独というものがあるのだけれど、8年間純粋培養するとこうなるのかと思った。これをカラオケに行ったりセックスをしたりして誤魔化せる人はいいけれど、僕みたいな純粋な孤独の培養液に浸っている人間は希死念慮しかなくなる。

 死にたい。死にたい。誰かと会いたい。愛されたい。僕はもう疲れた。

遺書の下書き

 僕が死ぬ理由は、たった一つです。疲れたからです。この重い体に閉じ込められているのにも疲れたし、存在から訪れる、退屈や倦怠にも疲れました。
 何事にも向き不向きがありますが、僕は生活を送ることに向いていません。高校をやめたことが象徴していますが、僕は日常生活がまともに送れません。2級の障碍者だから。自閉症スペクトラム障害というのは、端的に言って「あなたはこの世界と和解できないよ」という宣告だと思います。僕は、社会へ出ては人間を恐れ、引きこもっては孤独と退屈に苛まれ、生きていくすべが分かりません。
 お父さんは、僕が「100億年後に全部無になるのだから生きる意味はない」と言ったら、「100億年後のことなんかどうでもいい」と言いましたが、僕にとっては今のことはどうでもよく、100億年後の自分だけが全てでした。僕は結局無になるものに、情熱を傾けることができない、結果主義者の、臆病者なのでした。
 僕が死んで、悲しむのは、お父さんだけだと思います。姉と弟は、すぐ忘れると思います。僕が生まれてよかったと思える二つのことは、少年時代の無垢な思い出と、引きこもり時代に念仏に出会えたことです。
 僕は死ぬと、仏様になるらしいです。そのあと菩薩になって、縁のある人を浄土へ連れて行くらしいです。まずは大好きなお母さんから、済度しようと思います。僕は、僕の死をきっかけに、お父さんも仏法を聞くようになってほしいです。

 僕は地位も名誉も金も子供も何も持っていないので、本当に未練というものがありません。僕は、若いけれど、十分に生きたと思います。十分すぎるほど生きました。生きててよかったと思えることも何度もありました。でも産まれてきたくなかったと思うことのほうが多かったです。僕は普通に生きたかったです。幸せを知りたかったです。

 先に、大好きなお母さんに会いに行ってきます。また数十年後に会いましょう。さようなら。

平等

 仏教はそもそも平等の宗教だと言える。究極の境地は「無分別智」と呼ばれて、自己も他者も区別しなくなった状態のことを指す。お釈迦様は別の弟子の反対があったにも関わらず、不可触民が弟子に加わることを拒まなかったし、女性も出家できる制度も作った。仏教にカースト制度はない。
 仏は、自己と他者の継ぎ目がない。だから、阿弥陀如来の目から見ると、自分も衆生も同じだ。これが究極の慈悲だろう。悟っている阿弥陀如来の目から見ると、全員平等だ。

 僕は、平等思想は正しいと思う。人類はみな、平等だと思う。けれどそれは、僕が社会的な弱者という立場にいるからだとも思う。平等思想は、弱者の思想である。
 強者は、階級があったほうがいい、区別があったほうがいい。そのほうが得をするから。弱者が平等思想を叫ぶのも、強者が差別思想を叫ぶのも、「そのほうが得をするから」というお互いの我執に過ぎない。人間というのは、本当に救えないな、と思う。

 平等思想も差別思想も我執だ。どちらが正しい、とかではなく、「得」の問題である。人間というのは、悲しい生き物だなあ。偽善かもしれないけど、いや、偽善だけれど、僕は、みんなに幸せになってほしいと思っている。偽善だなあ。

 でも一つだけ、本当に平等なものがある。死だ。乞食も王様も死ぬ。ある禅者は「座禅から世界を見る」と言っていたが、それは「死」から世界を見ることだと思う。それは浄土から世界を見ることだと思う。
 人間は全員死ぬ。死に階級はない。僕は、優しくなりたい。

馬鹿とは何なのか?

 馬鹿とは、無明のことである。これですっぱり定義できた。馬鹿とは無明である。無明とは何か?無明とは真理に暗いことである。
 真理とは何か。様々あるが、ここでは四聖諦を挙げておこう。四聖諦とは、この世は苦しい、苦しみの原因は煩悩である、煩悩を滅すれば楽になる、煩悩を滅する道がある、という四つの真理である。
 だから、煩悩のあるやつが馬鹿である。欲しい、憎い、可愛い、がある奴が馬鹿である。「『凡夫』というふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」
 「お釈迦様以外みんな馬鹿」というタイトルの本を本屋で見かけたことがあるが、そういうことだ。

 僕は、浄土教は「反省」の宗教だと思う。弥陀に照らされたわが身を「あさまし」と点検していく宗教である。こんな汚い心だったのか、と照らされていく宗教だと思う。
 僕は自分のことを賢いと思っていたけれど、最近はあまりそう思わなくなった。つまらん奴だなあと思うことが増えた。

 人はみな「凡夫」である。有限者である。だから、自分の「馬鹿」を自覚するのが、せめてもの智慧なのだけれど、それすらも難しい。なぜなら自分を「馬鹿」だと判断している自分は馬鹿ではないからだ。馬鹿のふりをしても、馬鹿にはなれない。私(この一番上にいる私は驕慢の頂きにいる)→馬鹿だ→私→馬鹿だ→私→馬鹿だ→私→馬鹿だ→私→馬鹿だ→私…
 仏から、「お前は本当にどうしようもない」と言われると、本当に凡夫の自覚ができる。一番上にいた私も仏から「お前は馬鹿だ」と言われたおかげで、馬鹿になれる。

 自分のことを賢いと思ってる傲慢勘違い人間は大馬鹿で、自分なんかつまらんと思ってる謙虚な馬鹿はそれよりマシな馬鹿だ。

 人間はみんな馬鹿である。無明の塊である。けれど、心の底から本当に「自分は馬鹿である」ということを自覚できると、他の勘違いしている人よりは、少しだけ賢くなれる。ここからソクラテスの無知の知の旅が始まるのだが、それはまた別のお話…。

流れ

 若存若亡という言葉がある。信じたり、疑ったりを繰り返している状態のことだ。僕は今この状態なんだけれど、信仰というのは、流れに乗ることだと、実感している。実際に、本願力に乗ずるとか、そういう表現は真宗に多い。
 そもそも「如来」というのは「如」から「来」るものという意味で、真理そのものがこの娑婆世界に表れているということだ。この「如」の流れがある。悟った人はこの「如」の流れに乗ずるのだろうが、「如来」の「勅命」を真受けにした人も、この「如」の流れに乗るのだと思う。
 親鸞は、海のメタファーが好きだったが、僕は南無阿弥陀仏は川だと思う。川の流れに逆らって踏ん張っている人も、すっころんだら、川に流されていく。それが疑いのないということだと思う。
 自然法爾だ。むしろ、川に流されないほうが、不自然だ。弥陀の願船に乗る。流れに乗る。身体の不自然な力みをなくす。

 僕は、プールで一番、流れるプールが好きだった。流れるプールに浮き輪を置いてぷかぷか浮かんでいたあのときみたいに、南無阿弥陀仏の浮き輪で、命の流れに乗りたい

ブログに書くことがない

 生きることは全て無駄です。死により全て虚無に葬り去られます。何を語っても、いずれ、語った人も、それを聞く人も、死にさらされます。行為も、お喋りも、全て、そらごと、たわごとです。
 一切は死によって無意味になります。何かを成し遂げます。その人の頭には、こういう思考が浮かびます。《だからなんなんだ?》
 今まで書いてきたブログも全部無駄です。本当に、虚しい。虚しい。このブログを読んでいる人も、全員死にます。何もなくなります。

 「死」は全てを黙らせる。結局死ぬのになんでブログなんか書くんだ…?

 「結局死ぬから何もかも無駄」「だから念仏を称える」これが僕の二種深信だ。

 「南無阿弥陀仏」以外のお喋りは、全てそらごとたわごとだ。これが僕の結論らしい。口に出す言葉で、唯一虚しくないのは、南無阿弥陀仏だけだ。南無阿弥陀仏がなければ、一生沈黙して生きるのも、一生喋りっぱなしで生きるのも、どちらも変わらない。

 人間は死ぬよ、だから念仏しよう、南無阿弥陀仏。以外に言うこと、書くことがなくなってしまった。
 

霊性

 別に布教使になろうと思っているわけでもないんだけれど、信仰を、合理主義的で唯物主義的で虚無主義的な現代人に、どうやったら分かってもらえるのかを考えている。いや、ただ僕が「怪しいこと」をしていると思われるのが嫌で、言い訳したいだけなのかもしれない。信仰というのをこう考えたらどうか、というのを示したい。

 人間には霊性がある。この時点でアウトな人にはアウトだろうけれど、虚無主義者と信仰者を繋ぐのは「霊性」という言葉しか、僕は今のところ知らない。霊性とは何か。鈴木大拙は「知性と感性の奥にあるもの」と言っているが、悟ってない僕たちにはよく分からない。僕は、西行がお伊勢参りしたときに詠んだ、この歌が一番分かりやすいと思う。「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
 神社へ行ったとき、葬式に参列したとき、友達が自殺したとき、聖書をめくったとき、純文学を読んだとき、死んだ親族のことを考えるとき、「何か」を感じる。この「何か」を僕は霊性と呼びたい。僕は「何か」を感じる。怪しい話をしてるだろうか?

 人間にはこの「何か」、つまり霊性を感知する能力がある。この能力の核を抽出して、この霊性を感知する能力を高める、開花させるのが信仰である。ある妙好人の法語に「 とにかく お慈悲の力は ぬくいでなあ」というのがある。この「霊性」にひたりっきりになれるのが、信仰である。

 あえて神仏のあるなしは問題にせずに書いてきた。そこを問題にすると、科学主義の現代人には受け取ってもらえない。ただ、僕は、霊性のある生活のほうが、精神的に豊かな生活であるとは思う。
 信仰というのは、霊性をギュッと固めた饅頭である。

母親が生きていてつらい

 僕の母親は、去年の6月に火葬された。当時、父親に「人間って死んだらどうなると思う?」と聞くと「それは分からんけど、母さんはみんなの中に生きてると思うよ」と言われた。
 みんなの「中に」とは一体どういう意味だろう。脳みその海馬の中に母親の記憶ニューロンができているということか?それとも箱のような「主観」の中に存在しているということか?
 
 僕にとって今、母親は、「表象」ではないと思う。イメージではない。それは「感じる」ものだ。例えば、僕は靴を揃えるのが習慣だったので、母親にいつも褒められていた。だから散歩から帰ってきて靴を揃えていると、そこに母親が「いる」。死者はどこに存在しているのか。僕は「記憶の部屋」だけではないと思う。僕と靴の「あわい」に存在しているのだと思う。

 現に、物質として現れることもある。犬を打とうとしていた友人にピュタゴラスが、「待て、その犬は前世では君の父親だった」と言ったという逸話は有名だけれど、死者がこのように生命として現れることもある。僕が前に書いた短歌。
珍しき蝶を見るたび母想うあっちにもいたこっちにもいた


 どこにもいないということは、どこにでもいるということだ。母さんは僕の「中」に生きてるのでもないし、仏壇の中にいるのでもないし、墓の中にいるのでもない。いや、その全部に生きているといってもいいかもしれない。抗がん剤を見るたびに、母親の声がする。それは、箱のような「主観」でもないし、科学的な「客観」でもないところからの声だと思う。

 花びらは散っても花は散らない。

 母親が生きているのを感じると、母親が死んだことを思い出す。母親が生きていてつらい。でも僕が死ぬまでずっと生きててね。死んだら、お浄土で会おうね。
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