人生入門

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人生の方向

 念仏をしても、人生の意味は分からない。なぜこの世界が存在しているのか?なぜ苦しい世界で生きているのか?なぜ阿弥陀仏は存在するのか?この「なぜ?」には答えが出ない。

 フランス語の「sens」という言葉には、「意味」という意味と、「方向」という意味があるらしい。
 今辞書で調べたら、方向という意味は後から加わったものらしいけれど、人生の「意味」を、人生の「方向」と書き換えれば、漠然としすぎた言葉である「意味」よりは、上手く考えられそうな気がする。

 人生の方向は、どこへ向かっている?釈尊は、人生の方向は、生まれて老いて病んで死ぬだけだよ、と仰った。つまり、生というスタートをきって、死というゴールテープを切る。死という方向へ走って行って、そのゴールテープの先には、何があるか?何もない。無だ。パスカルは人間は絶壁に向かって目隠しをして走っていると言ったが、その通りで、人生の方向は「無」にしか向いていない。財産を作ったり、子供を作ったり、名誉を得たり、寄り道をすることもできるが、結局方向は「無」のまま変わらない。

 哲学者でお坊さんの大峯顕は、生命環流という本を出している。命が、環になって流れる。これは往相と還相を言った言葉だが、念仏をする人は、人生の方向が、円を描くようになるのだと思う。生→死で終わる直線的な方向ではなくて、浄土へ往生して、また娑婆へ、還相の菩薩として帰ってくる。その円環のうちに生きることになる。生→死という直線が、娑婆⇔浄土という円環になる。

 人生の「意味」と言ったらよく分からないけれど、「方向」と言ったらはっきりする。浄土へ往生して行って、また還相の菩薩として帰ってきて、また浄土へ行って、また帰ってくる。その間に、数知れない人を仏にする手伝いをする。往相も還相も他力である。他力の方向で生きていく。南無阿弥陀仏。

お見抜き

 信心決定している友達に「疑いがひどくてつらい」と相談したところ、「阿弥陀様はそんなのお見抜きだよ」と言われた。「こちらがいくら背を向けてもこっちを向いている」とも言われた。五劫の思惟のときにすでに、僕のちっぽけな疑いなど「お見抜き」なのだ。

 キリスト教とイスラム教を理論で戦わせる場合、イスラム教が圧倒するらしい。理論で負けたキリスト教徒がイスラム教に改宗する場合、「アッラーにはすべてお見抜きだった」ということになるだろう。けれども、「お見抜き」というのは理論ではないと思う。例えば、浄土真宗に帰依している人が、キリスト教へ改宗するとすれば、「イエスさまは全てお見抜きで待っていた」ということになるだろう。その人がまたイスラム教へ改宗すれば、「全てはアッラーの手のひらの中の出来事だった」となるだろう。キリがない。浄土真宗にとっては阿弥陀仏=真如が究極の、それ以上遡れない「メタ原理」であり、イスラム教の人にとってはアッラーが究極のメタ原理である。並列しているメタ原理で、誰が究極的に「見抜いて」いるのか?
 キリスト教の信仰は決断だと聞く。浄土真宗の場合は「宿縁」だと思う。

 僕は阿弥陀仏が全ての人の心を「お見抜き」していると思う。それはいろいろな縁が重なってそうなっているのだと思う。キリスト教の人は、決断によって、全知全能のGODが世界中の人の心を「お見抜き」していると信じるのだと思う。

 誰が見抜いているのか?誰の手のひらの上で踊っているのか?僕には仏としか思えない。

 改宗などの問題などで揺れるときは、「誰の手のひらの上で踊っているのか?」の問いに収れんされると思う。「その相手の理論武装で揺れて不審が起きるのも全部お見抜きだから、安心しなさい」
 
 真っ白い 個室の天井 死が近く 弥陀のベッドで 浄土まで寝る #tanka
神になるということ エンペドクレス、ニーチェ、原口統三

神になるということ エンペドクレス、ニーチェ、原口統三

 ネットの人が「宗教に興味がある」と言っていたので、「なんで?」と言ったら、「神になりたいから」と言っていた。この前も「神になりたかった」と言って人をひき殺した残忍な事件があった。
 
 神は死んだ。だから人間が神になった。「神」というバカでかい主観性の中で生きていた人間に、主観性が奪還された。人間に主観性という呪いがついてまわるようになった。
 「主観ー対象」という図式を一番最初に作ったのはギリシャのビュタゴラスだろうけれど、それをプラトンが広大な哲学にしあげた。日下部吉信によると、エンペドクレスはこの「主観性」を一身に引き受けたせいで、自分を「神」だと思うようになり、それを証明するために、火山に身を投げて死んだらしい。

 スコラ哲学の神=主観が終わり、デカルトあたりから、人間にまた主観がとりつくようになった。デカルトからニーチェまでは、全部「主観の哲学」と言っても全く差支えがない。そして最後に「主観」そのものになったニーチェは、発狂して死んだ。神が「光あれ」と言うと光ができる。神の言葉=思考と現実との齟齬はない。ニーチェは狂ったあと「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」思考そのものになってしまった。主観=神に取りつかれた人間は死ぬ。

 原口統三。「しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。」私→私→私→私→私→私→私→私→私→私→私→私→私と、私の主観化=対象化は一生続く。主観性の化け物ができる。だから、死んだ。

 神が死んだあと、主観に呪われた人間が「神」にならない方法があるか?図式に書いた。凡夫に安んずる。西田幾多郎がいうに、「凡夫」とは仏からの呼び声である。

相関主義 物自体 真理 慈悲

 最近の哲学は、相関主義を批判するのがトレンドらしい。相関主義というのは世界は人間との相関としか現れないと主張する主義だ。カントがその典型で、カントは物自体は認識できず、人間の「主観」と相関している「現象」しか認識できないとした。最近はそれが人間中心主義だと異を唱える人が増えてきて、新実在論と言われている。

 仏教は、相関主義である。仏教は、西洋哲学のカテゴリーでいうと「言語的観念論」と言ってもいいかもしれない。「言語」という本当は存在しないものによって、世界が、自己が、区切られている。「欲望的観念論」と言っていいかもしれない。煩悩という原理によって、世界を区切る。この世界を区切る働きを「パパンチャ」という。この言語や煩悩と言ったパパンチャを滅して、「あるがまま」の世界を見るのが仏教である。

 僕は基本的に、相関主義は正しいと思う。世界は「僕にとって」の世界でしかなく、その「僕」が滅すると、「あるがまま」の風景が見えるのだと思う。そしてその「あるがまま」が真理そのもので、人間の出会うべきものだと考える。人間はこれに会うために生まれてきた。

 パパンチャを滅して「真如(真に如実であるもの)」の風景を直接見る事の出来る人もいるだろうが、真如へ至るには二つの道がある。自己→真如 という道と 真如→自己 という道がある。この「本当」が向こうからやってくる道を浄土門という。

 カントの衣鉢を継いだショーペンハウアーは、この相関の先にある「あるがまま」を「荒れ狂う意志」と直感したが、僕はそれを間違いだと思う。そこにあるのは慈悲だ。

 新実在論は、相関主義を批判することによって、哲学に神学的な次元を取り戻そうとする運動らしいが、「相関」の向こう側へ行く、「相関」の向こう側が来る、というほうが神的な、絶対的な次元は開かれると思う。
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり—————親鸞

嘘かもしれないものを信じるのが怖い

 多数の人に「嘘かもしれないものを信じるのが怖い」と言われた。僕も昔はそう思っていた時期がある気がする。でもそんなこと言ってる余裕がなくなった。ニヒリズムに首まで浸っている。

 一つ確認しておくと、阿弥陀仏が存在している証拠というのは一切ない。信仰している人は「南無阿弥陀仏」が証拠だというだろうが、信仰していない人にとってそれはただの声だ。何億もの仏が南無阿弥陀仏を本物だと讃嘆しているといわれているが、それも疑えば同じだ。

 では信仰とは賭けなのか?僕は信仰を賭けだという人は、信仰していない、信仰の本質が分かっていないと思う。神がいない場合、信じても信じなくても人生=0だ。神がいる場合、信じたら無限、信じてなかったら0だ。だから信じたほうが合理的、という賭けはあまりに打算的すぎて、信仰の心情ではないと思う。

 ではなぜ信仰するのか?僕の場合、賭けではない。「それ」しかなかったからだ。「追い詰められた」。仏に追い詰められた。信仰せざるをえない状況に追い込まれた。導かれたというより、四方にある「虚無」という壁に追い詰められたといったほうが正確だ。

「念仏は本当に浄土に生れる因なのか、 逆に地獄に堕ちる行いなのか、 まったくわたしの知るところではありません。 たとえ法然上人にだまされて、 念仏したために地獄へ堕ちたとしても、 決して後悔はいたしません。
 なぜなら、 他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、 それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、 だまされたという後悔もあるでしょうが、 どのような行も満足に修めることのできないわたしには、 どうしても地獄以外に住み家ははないからです。」
 これを「賭け」だと解説している本があったが、僕はそれは違うと思う。9歳から20年間比叡山で修行をして、生死の意味が分からなかった。どのような行もできない。地獄に堕ちるしかない。親鸞聖人には、「罪悪」や「地獄」という壁が四方から迫っていたのだと思う。
 一言でいえば、「絶望」。溺れる者は藁をもつかむ。「それ」しかなくなった。心に「虚無」と入力したら「南無阿弥陀仏」と出力された。賭けではない。追い詰められただけだ。

 親鸞は「念仏は地獄に行く種か浄土に行く種か知らない」と言っている。でももう親鸞には「念仏」しか残っていなかった。

 他に道がないのだ。ただその道は、浄土へ続いている。

 

哲学と失望

 昔から僕のブログを読んでいる人なら分かると思うけれど、僕は「失望」するために生きているところがある。世の中にある可能性を一つ一つ潰していって、信仰を蒸留させようとしているところがある。快楽には失望した。家族には失望した(絶対的に頼れないという意味で)。キルケゴールが「とある地上的なものに対する絶望」と「地上的なもの全てに対する絶望」を峻別しているが、僕はまだ地上的なもの全てに失望することはできずに、個々のものには希望を抱いているのだと思う。
 「失望したい」というのもただ、信仰だけのためだけではなく、僕は精神的にマゾヒストなところがあるのだと思う。失望フェチ。知性に失望したいから、哲学をしているのだと思う。哲学にはまだ少し希望がある。あるのか?ベルクソンの創造的進化などは概要を読んだけれど、希望が少しだけあるかもしれない。

 昔から、哲学書を読んでいるときに、ふっと頭に浮かぶことがある。人間より上位の存在、例えば物凄い知性の高い宇宙人がいるとしたら、この今読んでいる「カント」や「ハイデガー」をなんと評価するだろうか。「こいつが一番おしいところにいってるな!」「こいつはまだまだだなあ」とか評価するんじゃなかろうか。そういうことをたまに考える。
 人間がいくら知恵を絞っても、お釈迦様の手のひらの上だ。
「人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。————清沢満之」
 清沢満之は、如来の手のひらで哲学をしていたわけだ。そしてその自力の知性に「失望」したところ、そこに無限があった。

 哲学から信仰に、という道はトルストイも通った。哲学は人生の意義に答えられない。早く哲学史を全部読んで、哲学に失望したい。

ハイデガーVSパスカル

 パスカルも、ハイデガーも、「実存的覚醒」の契機は結構似ていると思う。それは「虚無」であったり「死」であったりが契機となる。

 その根本契機に会う気分が、2人で少しずれる。ハイデガーは「不安」であり、パスカルは「退屈」である。不安は現存在(人間)から、世界の意義がなくなる「天啓」といったものだろう。普段慣れ親しんでいる世界、習慣化された世界から、意義がはぎとられて、「無」が露出する。この気分が人間を真に目覚めさせる。
 パスカルの場合は「退屈」である。「人間の不幸は一人で部屋にじっとしていられないことから始まる」と言ったように、人間は退屈になると、「虚無」で「惨め」な自分を直視しなければならなくなる。

 そこから逃避する手段として、ハイデガーは空談、好奇心、曖昧性を挙げているが、これはパスカルとほぼ同じだ。パスカルもお喋りや好奇心で「気晴らし」をし、人間の本当の実存を隠す人間を糾弾している。

 逃避をせずに、気分に被投された結果はどうなるか?
 ハイデガーの場合は、「有限性を意識した勇気」と言っていいだろう。死を先駆けることによって、「己だけに関係する、有象無象の偶然性をはぎ取った可能性」が露出してくる。死は代理されない。だから自分だけに関係する。死は追い越すことができない。だから有象無象の偶然的な可能性は排除される。「本当の自分自身として生きる可能性」が抽出されてくる。
 パスカルの場合、退屈から、虚無で惨めな自分が透明に見えるようになるだけだ。でもそれが「本当」の自分だ。人間は虚無で惨めなものだ。パスカルの目から見ると、人間は目隠しをして絶壁に走っている人だし、死刑が確定している死刑囚である。そして最後は、棺桶の上に土をハラリと乗せられて、それで、おしまい。逃避をしないことによって露呈されるこの「虚しさ」から逃げない。そこから信仰が導かれてくる。虚しさを癒すのは信仰しかない。

 僕は完全にパスカル派だ。でもイケイケのユーチューバーが、「人生限られてるんだからやりたいことやらなくちゃ損だぜ!」とか言ってるの見たことあるので、ハイデガー派の人もいるのかもしれない。大体の人は「気晴らし」で逃避をしていると2人とも言っているけれど、ハイデガーになるにしても、パスカルになるにしても、せめて「有限性」や「死」から眼を背けない「本当」が出てくる時間はみんな持ってほしいと思う。

西田幾多郎

 善の研究を読んで、「なんか二流思想家だな」と思っていたけれど、論文を読むとかなり凄かった。僕にはまだ全然理解できないけど、なんか、勉強すべき人だと感じた。禅や浄土真宗に通底する何かを哲学している気がする。哲学の終局を「宗教」だと言い切っているのもよい。僕にとって哲学とは「スタンプラリー」に過ぎなかったが、西田幾多郎からは何か掴める気がする。
 今年はサルトルとかレヴィナスを読むつもりだったけど、ハイデガーだけで満足してしまったので、西田幾多郎を学ぼうと思う。だから、ブログの紹介欄にある読書計画を変えて、カントやヘーゲルから読もうと思う。

人から本を貰った

人から本を貰った ありがとう 以下要約

第一章 意識の主観と客観への分裂
 ヤスパースは主観と客観を切断するのではなく、統合することで、普遍に到ろうとした。けれども原理は「主観ー客観ー分裂」であり、これがヤスパース哲学の根本となる。
 ヤスパースは主観主義に陥ることを避けるため、物理的世界(現実1)生命世界(現実2)心的世界(現実3)精神世界(現実4)を措定した。

第一節 志向性と分裂
 志向性とは、意識は「何者かについての意識である」ということである。その時点で、主観と客観は分裂している。意識→リンゴと分裂している。これが根本現象である。この分裂は、現実4だけではなく、現実3においてもみられる。現実3の心的世界(体験流)も客観的に見るのではなく、主観との関係において分析されるべきだとヤスパースは説いた。

第二節 自我意識の形式的特徴
 主客分裂を構成するのは自我意識と対象意識である。ヤスパースにおいて重視されるのは自我意識の方で、1外界や他人に対する自我意識、2能動性の意識、3同一性の意識、4単一性の意識という特徴があげられる。

1は自分と外界を区別する働きである。統合失調症の一部の患者や、幼児にはこの機能がないと思われる。
2は感情や知覚などが、自分の所有物であると感じる感覚である。これらも精神病でなくなることがあるらしい。
3は、過去現在未来を通して、自己同一性を感じることである。これはデカルト的なコギトが過去や未来に投影されて創り出される感覚で、身体的な同一性から生まれるものではない。
4は、自分は唯一無二であるという感覚である。

第三節 人格における自我意識と対象意識の相補性
 ヤスパースにおいて、人格とは「諸々の了解的連関の全体、とりわけ欲動の生と感情の生の全体、価値づけと希求の全体、意志の全体」である。
人格は自我意識の在り方であり、能動的な欲動、受動的な感情と、それぞれ深く関連しながら内容の乏しい現存在から、内容の豊かな無限の系列へ、分化していく。どのように分化していくかというと、3つの重要な契機がある。まず衝動的欲動と、自然的な欲動が峻別される。衝動的欲動は、人格においては些末なもので、普通は目的を持った自然な欲動が主になっている。第二に、身体的欲動、生命的欲動、精神的欲動の「葛藤」があげられる。この葛藤から学ぶことで、人格は様々なことを学ぶが、「葛藤」は消え去ることはない。第三に意志作用があげられる。人格が未分化な状態だと「決断」する力が弱いが、人格が分化していくと、人格は決断できるようになる。個人の人格の陶冶が行われるのは、欲動の連関と葛藤と通じてである。
 対象意識も人格に影響を及ぼすが、一番影響が甚大なのは現実4の精神世界の「価値」である。人格は真理や健康や名声などに優先順位をつける。「どのような価値づけをしているのか」というのはヤスパースの人格概念の一部である。 
 こうやって価値などの客観にある対象意識と、欲動の葛藤などの自我意識が絡み合いながら人格の形成は進んでいく。最初は対象意識しか見えないが、その対象意識は跳ね返され、自我意識へと「反省」することになる。

第四節 分裂の意義
 分裂があることによって、われわれは自我も「客観」として見ることができる。自我を反省して客観視する方法にも二つある。一つは観想的自己反省で、一つは能動的自己反省である。順序としては観想的自己反省が先になる。観想的自己反省をすることで、以前にはなかった「私」と「私」の関係ができることで、新たな階梯へ上ることができる。能動的自己反省はそれをもとにして、外部に自己を形成していく、具体的行動にうつしていく。
 ところで、分裂ということでヤスパースが念頭に置いているのは客観主義、科学主義である。主客を超越した超越者は包括者という概念によって、それらは批判されてゆくことになる。

第五節 主観性と客観性の両極性にある実存
 自己は3つの相がある。考える意識・自我相・性格である。考える意識は内容がない。デカルト的な意識である。自我相には「身体我」「社会我」「業績我」「回想我」がある。性格とは、外面的に観察できるその人の現れである。ヤスパースはこのような客観的な自己の定義では、自己は汲みつくせないという。
 この客観的な自己ではないものが「実存」であり、欲動や感情などの主観性を大事にしながら、外界からの要請にもこたえていくという、主客両極にまたがった性格をしている。

第二章 限界状況と実存

第一節「限界状況」とは何か
 限界状況は三層構造であり、根本にある「現存在の二律背反的構造」から「個別的限界状況」「状況内存在としての限界状況」が現れる。
 状況の具体的な内容は個人によって千差万別だが、ヤスパースは限界状況を抽出できるという。即ち「死」「苦悩」「戦い」「偶然」「責め」通常覆い隠されているこの根本状況が自己実現の条件として能動的に引き受けられたとき、限界状況としての意義を持つことになる。この根本状況を意識することによって、3種類の結果が表れる。
1生きる活力がなくなって自殺する
2この限界状況を回避する。見ないようにする。ヤスパースはほとんどの人がこのようにしているという。
3能動的に乗り越えるエネルギーを獲得し、精神の生そのものとしての力を生み出す。
 先ほどの五つの「個別的限界状況」の根底には、人間が有限であるという現実がある。そして、現存在の有限性を規定するのは、現存在に内在する「二律背反的構造」である。

第二節 主観の側での二律背反と「選択」
 主観の側での二律背反とは、欲動の葛藤のことである。愛憎が入れ替わったり、ダイエット中にお菓子が食べたくなったり、社会的通念に反する映画を見たり、そういう欲動の葛藤である。そういう価値の対立を解消するのに、衝動や哲学的、宗教的権威に頼ると人はダメになる。「選択」しなければならない。
 たしかに遺伝や環境、人格など、安定したシステムがあるが、二律背反が起きると全て崩れてしまう。そこで「意志」は欲動の間に介入するだけでなく、安定性を揺るがされた心的生に、現にあるより高い次元の統合性を志向させる。「自分自身に対する関係」として機能するこの意志は、根源的選択としての、自己創造を行う。実存の生成は相反するものの総合という契機を含んでおり、その契機では個人の意識の爆発的発展が起こる。苦悩から力が生まれる。
 「私が」選択することを選択というのであって、合理的な判断、社会的な判断、その他もろもろ客観的なモノサシで判断することを、ヤスパースは「殻」という概念で批判している。

第三節 客観の側での二律背反と「決断」
 価値には必ず非価値が伴う。これが二律背反だ。ギリシャ人は哲学的生活という「価値」を享受していたが、その裏には奴隷の搾取という非価値があった。ヤスパース自身もそうだ。大学教授という価値に座りながら、労働者を搾取している。勝ち組の裏には負け組がある。ヤスパースは、それを無くそうなどというユートピア的なことは言わない。それの「責め」を感じよ、という。行為には必ず犠牲が伴う。その「責め」を覚悟できるものだけが「決断」をすることができる。  

第三章 包越的存在論と主観主義
 
第一節 超越する始点としての主観
 ヤスパースは一者、超越者、包括者、根本、などの概念を総称して「包越者」と呼ぶ。これは1〜4までの世界や、主客の分裂を包括したものである。西田幾多郎から「ヤスパースは主観から出発している時点で、主観主義を脱していない」という批判が浴びせられるが、筆者は「ヤスパースは主ー客の分裂」から出発しているので、その批判は当たらないという。

第二節 我と包越者
 人間は包越者を認識することはできず、「思いをはせる」ことしかできない。科学的認識の限界を認識することと、限界状況に立つことが。超越することの跳躍台になる。ヤスパースの言葉でいえば「ただ極めて制約のない研究的世界定位のみが、現存在の全体の被破砕性の中で実存するはたらきの媒体となり、超越者を感知することを教える」

第三節 理性と精神
 包越者は7つの様態に分けられる。主観の様態の現存在・意識一般・精神。我々が存在しなくても存在するものとして、客観の様態の、存在そのものがそれであるところの包越者、世界、超越者。これらを統合するのが「理性」である。この意味で理性の役割は大きい。統合へ向かって生きる力へなり、さらには人類、生命、宇宙といった全体者へと志向する「調和」の原理ともなりうる。

四章と五章の「了解」と「交わり」については、僕の興味の範囲外なので割愛させてください(泣)(勝手に要約してるんだけれど…)

全体的な感想
 ヤスパースで一番気になっていたのは仏教の四苦と酷似している限界状況論なんだけれど、それを超えているかと聞かれたら、「根性論でなんとかしろ!」「超越者を感じろ!」「お前自身になれ!」と根性論を言っているようにしか思えなかった…。主客の分裂の解消に何か神秘的な、論理を超えたものを置くのもずるい、と思った。やはり主客の解消は東洋思想のほうに軍配が上がると思う。
 限界状況論の、客観的二律背反という考えが面白かった。何をするにしても、必ず「価値」は「非価値」を生む。けれどもその非価値をなくすのではなくて、「責め」を意識して生きよ、というのは今まで聞いたことのない倫理で面白かった。
 ちょくちょく挟まれる筆者の見解が薄っぺらかったので、作者は若い人だと思う。もうちょっと年を重ねてからのヤスパース論も読んでみたい。

style

 僕は表現が嫌いだと昔から散々言っているけれど、そんな僕に空リプで「表現が嫌いということは、生きるということが嫌いなんですよ」と言われたことがある。当たっていると思う。
 問題なのは「style」だ。どんなstyleで生きるか、どんなstyleで表現をするか。僕はそれは、通底しているものだと思う。文章の内容よりもstyle(文体)にこそ、一番人が出る。言葉よりもstyle(生き方)にこそ、人が出る。

 僕の「美学」は、オナニーをしないこと、売春をしないことだ。言い換えれば、自分に酔わないこと、他人に媚びないことだ。哲学をしている自分に酔わない。美辞麗句を並べて他人に媚びない。僕は自分のブログを一つの表現だと思っているけれど、できるだけ、オナニーと売春は避けているつもりだ(そこは読者の判断に任せるしかないけれど)。

 名は体を表すというが、文体のほうがその人の「スタイル」を表していると思う。やはりナルシスティックな人はナルシスティックな文体だし、目立ちたがり屋の文章は目立ちたがっている。
 沈黙が一番いいのが勿論だけれど、自分の美学も磨いていこう。
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