哲学と失望
昔から僕のブログを読んでいる人なら分かると思うけれど、僕は「失望」するために生きているところがある。世の中にある可能性を一つ一つ潰していって、信仰を蒸留させようとしているところがある。快楽には失望した。家族には失望した(絶対的に頼れないという意味で)。キルケゴールが「とある地上的なものに対する絶望」と「地上的なもの全てに対する絶望」を峻別しているが、僕はまだ地上的なもの全てに失望することはできずに、個々のものには希望を抱いているのだと思う。
「失望したい」というのもただ、信仰だけのためだけではなく、僕は精神的にマゾヒストなところがあるのだと思う。失望フェチ。知性に失望したいから、哲学をしているのだと思う。哲学にはまだ少し希望がある。あるのか?ベルクソンの創造的進化などは概要を読んだけれど、希望が少しだけあるかもしれない。
昔から、哲学書を読んでいるときに、ふっと頭に浮かぶことがある。人間より上位の存在、例えば物凄い知性の高い宇宙人がいるとしたら、この今読んでいる「カント」や「ハイデガー」をなんと評価するだろうか。「こいつが一番おしいところにいってるな!」「こいつはまだまだだなあ」とか評価するんじゃなかろうか。そういうことをたまに考える。
人間がいくら知恵を絞っても、お釈迦様の手のひらの上だ。
「人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。————清沢満之」
清沢満之は、如来の手のひらで哲学をしていたわけだ。そしてその自力の知性に「失望」したところ、そこに無限があった。
哲学から信仰に、という道はトルストイも通った。哲学は人生の意義に答えられない。早く哲学史を全部読んで、哲学に失望したい。
「失望したい」というのもただ、信仰だけのためだけではなく、僕は精神的にマゾヒストなところがあるのだと思う。失望フェチ。知性に失望したいから、哲学をしているのだと思う。哲学にはまだ少し希望がある。あるのか?ベルクソンの創造的進化などは概要を読んだけれど、希望が少しだけあるかもしれない。
昔から、哲学書を読んでいるときに、ふっと頭に浮かぶことがある。人間より上位の存在、例えば物凄い知性の高い宇宙人がいるとしたら、この今読んでいる「カント」や「ハイデガー」をなんと評価するだろうか。「こいつが一番おしいところにいってるな!」「こいつはまだまだだなあ」とか評価するんじゃなかろうか。そういうことをたまに考える。
人間がいくら知恵を絞っても、お釈迦様の手のひらの上だ。
「人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。————清沢満之」
清沢満之は、如来の手のひらで哲学をしていたわけだ。そしてその自力の知性に「失望」したところ、そこに無限があった。
哲学から信仰に、という道はトルストイも通った。哲学は人生の意義に答えられない。早く哲学史を全部読んで、哲学に失望したい。
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