嘘かもしれないものを信じるのが怖い
多数の人に「嘘かもしれないものを信じるのが怖い」と言われた。僕も昔はそう思っていた時期がある気がする。でもそんなこと言ってる余裕がなくなった。ニヒリズムに首まで浸っている。
一つ確認しておくと、阿弥陀仏が存在している証拠というのは一切ない。信仰している人は「南無阿弥陀仏」が証拠だというだろうが、信仰していない人にとってそれはただの声だ。何億もの仏が南無阿弥陀仏を本物だと讃嘆しているといわれているが、それも疑えば同じだ。
では信仰とは賭けなのか?僕は信仰を賭けだという人は、信仰していない、信仰の本質が分かっていないと思う。神がいない場合、信じても信じなくても人生=0だ。神がいる場合、信じたら無限、信じてなかったら0だ。だから信じたほうが合理的、という賭けはあまりに打算的すぎて、信仰の心情ではないと思う。
ではなぜ信仰するのか?僕の場合、賭けではない。「それ」しかなかったからだ。「追い詰められた」。仏に追い詰められた。信仰せざるをえない状況に追い込まれた。導かれたというより、四方にある「虚無」という壁に追い詰められたといったほうが正確だ。
「念仏は本当に浄土に生れる因なのか、 逆に地獄に堕ちる行いなのか、 まったくわたしの知るところではありません。 たとえ法然上人にだまされて、 念仏したために地獄へ堕ちたとしても、 決して後悔はいたしません。
なぜなら、 他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、 それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、 だまされたという後悔もあるでしょうが、 どのような行も満足に修めることのできないわたしには、 どうしても地獄以外に住み家ははないからです。」
これを「賭け」だと解説している本があったが、僕はそれは違うと思う。9歳から20年間比叡山で修行をして、生死の意味が分からなかった。どのような行もできない。地獄に堕ちるしかない。親鸞聖人には、「罪悪」や「地獄」という壁が四方から迫っていたのだと思う。
一言でいえば、「絶望」。溺れる者は藁をもつかむ。「それ」しかなくなった。心に「虚無」と入力したら「南無阿弥陀仏」と出力された。賭けではない。追い詰められただけだ。
親鸞は「念仏は地獄に行く種か浄土に行く種か知らない」と言っている。でももう親鸞には「念仏」しか残っていなかった。
他に道がないのだ。ただその道は、浄土へ続いている。
一つ確認しておくと、阿弥陀仏が存在している証拠というのは一切ない。信仰している人は「南無阿弥陀仏」が証拠だというだろうが、信仰していない人にとってそれはただの声だ。何億もの仏が南無阿弥陀仏を本物だと讃嘆しているといわれているが、それも疑えば同じだ。
では信仰とは賭けなのか?僕は信仰を賭けだという人は、信仰していない、信仰の本質が分かっていないと思う。神がいない場合、信じても信じなくても人生=0だ。神がいる場合、信じたら無限、信じてなかったら0だ。だから信じたほうが合理的、という賭けはあまりに打算的すぎて、信仰の心情ではないと思う。
ではなぜ信仰するのか?僕の場合、賭けではない。「それ」しかなかったからだ。「追い詰められた」。仏に追い詰められた。信仰せざるをえない状況に追い込まれた。導かれたというより、四方にある「虚無」という壁に追い詰められたといったほうが正確だ。
「念仏は本当に浄土に生れる因なのか、 逆に地獄に堕ちる行いなのか、 まったくわたしの知るところではありません。 たとえ法然上人にだまされて、 念仏したために地獄へ堕ちたとしても、 決して後悔はいたしません。
なぜなら、 他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、 それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、 だまされたという後悔もあるでしょうが、 どのような行も満足に修めることのできないわたしには、 どうしても地獄以外に住み家ははないからです。」
これを「賭け」だと解説している本があったが、僕はそれは違うと思う。9歳から20年間比叡山で修行をして、生死の意味が分からなかった。どのような行もできない。地獄に堕ちるしかない。親鸞聖人には、「罪悪」や「地獄」という壁が四方から迫っていたのだと思う。
一言でいえば、「絶望」。溺れる者は藁をもつかむ。「それ」しかなくなった。心に「虚無」と入力したら「南無阿弥陀仏」と出力された。賭けではない。追い詰められただけだ。
親鸞は「念仏は地獄に行く種か浄土に行く種か知らない」と言っている。でももう親鸞には「念仏」しか残っていなかった。
他に道がないのだ。ただその道は、浄土へ続いている。
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