人から本を貰った
人から本を貰った ありがとう 以下要約
第一章 意識の主観と客観への分裂
ヤスパースは主観と客観を切断するのではなく、統合することで、普遍に到ろうとした。けれども原理は「主観ー客観ー分裂」であり、これがヤスパース哲学の根本となる。
ヤスパースは主観主義に陥ることを避けるため、物理的世界(現実1)生命世界(現実2)心的世界(現実3)精神世界(現実4)を措定した。
第一節 志向性と分裂
志向性とは、意識は「何者かについての意識である」ということである。その時点で、主観と客観は分裂している。意識→リンゴと分裂している。これが根本現象である。この分裂は、現実4だけではなく、現実3においてもみられる。現実3の心的世界(体験流)も客観的に見るのではなく、主観との関係において分析されるべきだとヤスパースは説いた。
第二節 自我意識の形式的特徴
主客分裂を構成するのは自我意識と対象意識である。ヤスパースにおいて重視されるのは自我意識の方で、1外界や他人に対する自我意識、2能動性の意識、3同一性の意識、4単一性の意識という特徴があげられる。
1は自分と外界を区別する働きである。統合失調症の一部の患者や、幼児にはこの機能がないと思われる。
2は感情や知覚などが、自分の所有物であると感じる感覚である。これらも精神病でなくなることがあるらしい。
3は、過去現在未来を通して、自己同一性を感じることである。これはデカルト的なコギトが過去や未来に投影されて創り出される感覚で、身体的な同一性から生まれるものではない。
4は、自分は唯一無二であるという感覚である。
第三節 人格における自我意識と対象意識の相補性
ヤスパースにおいて、人格とは「諸々の了解的連関の全体、とりわけ欲動の生と感情の生の全体、価値づけと希求の全体、意志の全体」である。
人格は自我意識の在り方であり、能動的な欲動、受動的な感情と、それぞれ深く関連しながら内容の乏しい現存在から、内容の豊かな無限の系列へ、分化していく。どのように分化していくかというと、3つの重要な契機がある。まず衝動的欲動と、自然的な欲動が峻別される。衝動的欲動は、人格においては些末なもので、普通は目的を持った自然な欲動が主になっている。第二に、身体的欲動、生命的欲動、精神的欲動の「葛藤」があげられる。この葛藤から学ぶことで、人格は様々なことを学ぶが、「葛藤」は消え去ることはない。第三に意志作用があげられる。人格が未分化な状態だと「決断」する力が弱いが、人格が分化していくと、人格は決断できるようになる。個人の人格の陶冶が行われるのは、欲動の連関と葛藤と通じてである。
対象意識も人格に影響を及ぼすが、一番影響が甚大なのは現実4の精神世界の「価値」である。人格は真理や健康や名声などに優先順位をつける。「どのような価値づけをしているのか」というのはヤスパースの人格概念の一部である。
こうやって価値などの客観にある対象意識と、欲動の葛藤などの自我意識が絡み合いながら人格の形成は進んでいく。最初は対象意識しか見えないが、その対象意識は跳ね返され、自我意識へと「反省」することになる。
第四節 分裂の意義
分裂があることによって、われわれは自我も「客観」として見ることができる。自我を反省して客観視する方法にも二つある。一つは観想的自己反省で、一つは能動的自己反省である。順序としては観想的自己反省が先になる。観想的自己反省をすることで、以前にはなかった「私」と「私」の関係ができることで、新たな階梯へ上ることができる。能動的自己反省はそれをもとにして、外部に自己を形成していく、具体的行動にうつしていく。
ところで、分裂ということでヤスパースが念頭に置いているのは客観主義、科学主義である。主客を超越した超越者は包括者という概念によって、それらは批判されてゆくことになる。
第五節 主観性と客観性の両極性にある実存
自己は3つの相がある。考える意識・自我相・性格である。考える意識は内容がない。デカルト的な意識である。自我相には「身体我」「社会我」「業績我」「回想我」がある。性格とは、外面的に観察できるその人の現れである。ヤスパースはこのような客観的な自己の定義では、自己は汲みつくせないという。
この客観的な自己ではないものが「実存」であり、欲動や感情などの主観性を大事にしながら、外界からの要請にもこたえていくという、主客両極にまたがった性格をしている。
第二章 限界状況と実存
第一節「限界状況」とは何か
限界状況は三層構造であり、根本にある「現存在の二律背反的構造」から「個別的限界状況」「状況内存在としての限界状況」が現れる。
状況の具体的な内容は個人によって千差万別だが、ヤスパースは限界状況を抽出できるという。即ち「死」「苦悩」「戦い」「偶然」「責め」通常覆い隠されているこの根本状況が自己実現の条件として能動的に引き受けられたとき、限界状況としての意義を持つことになる。この根本状況を意識することによって、3種類の結果が表れる。
1生きる活力がなくなって自殺する
2この限界状況を回避する。見ないようにする。ヤスパースはほとんどの人がこのようにしているという。
3能動的に乗り越えるエネルギーを獲得し、精神の生そのものとしての力を生み出す。
先ほどの五つの「個別的限界状況」の根底には、人間が有限であるという現実がある。そして、現存在の有限性を規定するのは、現存在に内在する「二律背反的構造」である。
第二節 主観の側での二律背反と「選択」
主観の側での二律背反とは、欲動の葛藤のことである。愛憎が入れ替わったり、ダイエット中にお菓子が食べたくなったり、社会的通念に反する映画を見たり、そういう欲動の葛藤である。そういう価値の対立を解消するのに、衝動や哲学的、宗教的権威に頼ると人はダメになる。「選択」しなければならない。
たしかに遺伝や環境、人格など、安定したシステムがあるが、二律背反が起きると全て崩れてしまう。そこで「意志」は欲動の間に介入するだけでなく、安定性を揺るがされた心的生に、現にあるより高い次元の統合性を志向させる。「自分自身に対する関係」として機能するこの意志は、根源的選択としての、自己創造を行う。実存の生成は相反するものの総合という契機を含んでおり、その契機では個人の意識の爆発的発展が起こる。苦悩から力が生まれる。
「私が」選択することを選択というのであって、合理的な判断、社会的な判断、その他もろもろ客観的なモノサシで判断することを、ヤスパースは「殻」という概念で批判している。
第三節 客観の側での二律背反と「決断」
価値には必ず非価値が伴う。これが二律背反だ。ギリシャ人は哲学的生活という「価値」を享受していたが、その裏には奴隷の搾取という非価値があった。ヤスパース自身もそうだ。大学教授という価値に座りながら、労働者を搾取している。勝ち組の裏には負け組がある。ヤスパースは、それを無くそうなどというユートピア的なことは言わない。それの「責め」を感じよ、という。行為には必ず犠牲が伴う。その「責め」を覚悟できるものだけが「決断」をすることができる。
第三章 包越的存在論と主観主義
第一節 超越する始点としての主観
ヤスパースは一者、超越者、包括者、根本、などの概念を総称して「包越者」と呼ぶ。これは1〜4までの世界や、主客の分裂を包括したものである。西田幾多郎から「ヤスパースは主観から出発している時点で、主観主義を脱していない」という批判が浴びせられるが、筆者は「ヤスパースは主ー客の分裂」から出発しているので、その批判は当たらないという。
第二節 我と包越者
人間は包越者を認識することはできず、「思いをはせる」ことしかできない。科学的認識の限界を認識することと、限界状況に立つことが。超越することの跳躍台になる。ヤスパースの言葉でいえば「ただ極めて制約のない研究的世界定位のみが、現存在の全体の被破砕性の中で実存するはたらきの媒体となり、超越者を感知することを教える」
第三節 理性と精神
包越者は7つの様態に分けられる。主観の様態の現存在・意識一般・精神。我々が存在しなくても存在するものとして、客観の様態の、存在そのものがそれであるところの包越者、世界、超越者。これらを統合するのが「理性」である。この意味で理性の役割は大きい。統合へ向かって生きる力へなり、さらには人類、生命、宇宙といった全体者へと志向する「調和」の原理ともなりうる。
四章と五章の「了解」と「交わり」については、僕の興味の範囲外なので割愛させてください(泣)(勝手に要約してるんだけれど…)
全体的な感想
ヤスパースで一番気になっていたのは仏教の四苦と酷似している限界状況論なんだけれど、それを超えているかと聞かれたら、「根性論でなんとかしろ!」「超越者を感じろ!」「お前自身になれ!」と根性論を言っているようにしか思えなかった…。主客の分裂の解消に何か神秘的な、論理を超えたものを置くのもずるい、と思った。やはり主客の解消は東洋思想のほうに軍配が上がると思う。
限界状況論の、客観的二律背反という考えが面白かった。何をするにしても、必ず「価値」は「非価値」を生む。けれどもその非価値をなくすのではなくて、「責め」を意識して生きよ、というのは今まで聞いたことのない倫理で面白かった。
ちょくちょく挟まれる筆者の見解が薄っぺらかったので、作者は若い人だと思う。もうちょっと年を重ねてからのヤスパース論も読んでみたい。
第一章 意識の主観と客観への分裂
ヤスパースは主観と客観を切断するのではなく、統合することで、普遍に到ろうとした。けれども原理は「主観ー客観ー分裂」であり、これがヤスパース哲学の根本となる。
ヤスパースは主観主義に陥ることを避けるため、物理的世界(現実1)生命世界(現実2)心的世界(現実3)精神世界(現実4)を措定した。
第一節 志向性と分裂
志向性とは、意識は「何者かについての意識である」ということである。その時点で、主観と客観は分裂している。意識→リンゴと分裂している。これが根本現象である。この分裂は、現実4だけではなく、現実3においてもみられる。現実3の心的世界(体験流)も客観的に見るのではなく、主観との関係において分析されるべきだとヤスパースは説いた。
第二節 自我意識の形式的特徴
主客分裂を構成するのは自我意識と対象意識である。ヤスパースにおいて重視されるのは自我意識の方で、1外界や他人に対する自我意識、2能動性の意識、3同一性の意識、4単一性の意識という特徴があげられる。
1は自分と外界を区別する働きである。統合失調症の一部の患者や、幼児にはこの機能がないと思われる。
2は感情や知覚などが、自分の所有物であると感じる感覚である。これらも精神病でなくなることがあるらしい。
3は、過去現在未来を通して、自己同一性を感じることである。これはデカルト的なコギトが過去や未来に投影されて創り出される感覚で、身体的な同一性から生まれるものではない。
4は、自分は唯一無二であるという感覚である。
第三節 人格における自我意識と対象意識の相補性
ヤスパースにおいて、人格とは「諸々の了解的連関の全体、とりわけ欲動の生と感情の生の全体、価値づけと希求の全体、意志の全体」である。
人格は自我意識の在り方であり、能動的な欲動、受動的な感情と、それぞれ深く関連しながら内容の乏しい現存在から、内容の豊かな無限の系列へ、分化していく。どのように分化していくかというと、3つの重要な契機がある。まず衝動的欲動と、自然的な欲動が峻別される。衝動的欲動は、人格においては些末なもので、普通は目的を持った自然な欲動が主になっている。第二に、身体的欲動、生命的欲動、精神的欲動の「葛藤」があげられる。この葛藤から学ぶことで、人格は様々なことを学ぶが、「葛藤」は消え去ることはない。第三に意志作用があげられる。人格が未分化な状態だと「決断」する力が弱いが、人格が分化していくと、人格は決断できるようになる。個人の人格の陶冶が行われるのは、欲動の連関と葛藤と通じてである。
対象意識も人格に影響を及ぼすが、一番影響が甚大なのは現実4の精神世界の「価値」である。人格は真理や健康や名声などに優先順位をつける。「どのような価値づけをしているのか」というのはヤスパースの人格概念の一部である。
こうやって価値などの客観にある対象意識と、欲動の葛藤などの自我意識が絡み合いながら人格の形成は進んでいく。最初は対象意識しか見えないが、その対象意識は跳ね返され、自我意識へと「反省」することになる。
第四節 分裂の意義
分裂があることによって、われわれは自我も「客観」として見ることができる。自我を反省して客観視する方法にも二つある。一つは観想的自己反省で、一つは能動的自己反省である。順序としては観想的自己反省が先になる。観想的自己反省をすることで、以前にはなかった「私」と「私」の関係ができることで、新たな階梯へ上ることができる。能動的自己反省はそれをもとにして、外部に自己を形成していく、具体的行動にうつしていく。
ところで、分裂ということでヤスパースが念頭に置いているのは客観主義、科学主義である。主客を超越した超越者は包括者という概念によって、それらは批判されてゆくことになる。
第五節 主観性と客観性の両極性にある実存
自己は3つの相がある。考える意識・自我相・性格である。考える意識は内容がない。デカルト的な意識である。自我相には「身体我」「社会我」「業績我」「回想我」がある。性格とは、外面的に観察できるその人の現れである。ヤスパースはこのような客観的な自己の定義では、自己は汲みつくせないという。
この客観的な自己ではないものが「実存」であり、欲動や感情などの主観性を大事にしながら、外界からの要請にもこたえていくという、主客両極にまたがった性格をしている。
第二章 限界状況と実存
第一節「限界状況」とは何か
限界状況は三層構造であり、根本にある「現存在の二律背反的構造」から「個別的限界状況」「状況内存在としての限界状況」が現れる。
状況の具体的な内容は個人によって千差万別だが、ヤスパースは限界状況を抽出できるという。即ち「死」「苦悩」「戦い」「偶然」「責め」通常覆い隠されているこの根本状況が自己実現の条件として能動的に引き受けられたとき、限界状況としての意義を持つことになる。この根本状況を意識することによって、3種類の結果が表れる。
1生きる活力がなくなって自殺する
2この限界状況を回避する。見ないようにする。ヤスパースはほとんどの人がこのようにしているという。
3能動的に乗り越えるエネルギーを獲得し、精神の生そのものとしての力を生み出す。
先ほどの五つの「個別的限界状況」の根底には、人間が有限であるという現実がある。そして、現存在の有限性を規定するのは、現存在に内在する「二律背反的構造」である。
第二節 主観の側での二律背反と「選択」
主観の側での二律背反とは、欲動の葛藤のことである。愛憎が入れ替わったり、ダイエット中にお菓子が食べたくなったり、社会的通念に反する映画を見たり、そういう欲動の葛藤である。そういう価値の対立を解消するのに、衝動や哲学的、宗教的権威に頼ると人はダメになる。「選択」しなければならない。
たしかに遺伝や環境、人格など、安定したシステムがあるが、二律背反が起きると全て崩れてしまう。そこで「意志」は欲動の間に介入するだけでなく、安定性を揺るがされた心的生に、現にあるより高い次元の統合性を志向させる。「自分自身に対する関係」として機能するこの意志は、根源的選択としての、自己創造を行う。実存の生成は相反するものの総合という契機を含んでおり、その契機では個人の意識の爆発的発展が起こる。苦悩から力が生まれる。
「私が」選択することを選択というのであって、合理的な判断、社会的な判断、その他もろもろ客観的なモノサシで判断することを、ヤスパースは「殻」という概念で批判している。
第三節 客観の側での二律背反と「決断」
価値には必ず非価値が伴う。これが二律背反だ。ギリシャ人は哲学的生活という「価値」を享受していたが、その裏には奴隷の搾取という非価値があった。ヤスパース自身もそうだ。大学教授という価値に座りながら、労働者を搾取している。勝ち組の裏には負け組がある。ヤスパースは、それを無くそうなどというユートピア的なことは言わない。それの「責め」を感じよ、という。行為には必ず犠牲が伴う。その「責め」を覚悟できるものだけが「決断」をすることができる。
第三章 包越的存在論と主観主義
第一節 超越する始点としての主観
ヤスパースは一者、超越者、包括者、根本、などの概念を総称して「包越者」と呼ぶ。これは1〜4までの世界や、主客の分裂を包括したものである。西田幾多郎から「ヤスパースは主観から出発している時点で、主観主義を脱していない」という批判が浴びせられるが、筆者は「ヤスパースは主ー客の分裂」から出発しているので、その批判は当たらないという。
第二節 我と包越者
人間は包越者を認識することはできず、「思いをはせる」ことしかできない。科学的認識の限界を認識することと、限界状況に立つことが。超越することの跳躍台になる。ヤスパースの言葉でいえば「ただ極めて制約のない研究的世界定位のみが、現存在の全体の被破砕性の中で実存するはたらきの媒体となり、超越者を感知することを教える」
第三節 理性と精神
包越者は7つの様態に分けられる。主観の様態の現存在・意識一般・精神。我々が存在しなくても存在するものとして、客観の様態の、存在そのものがそれであるところの包越者、世界、超越者。これらを統合するのが「理性」である。この意味で理性の役割は大きい。統合へ向かって生きる力へなり、さらには人類、生命、宇宙といった全体者へと志向する「調和」の原理ともなりうる。
四章と五章の「了解」と「交わり」については、僕の興味の範囲外なので割愛させてください(泣)(勝手に要約してるんだけれど…)
全体的な感想
ヤスパースで一番気になっていたのは仏教の四苦と酷似している限界状況論なんだけれど、それを超えているかと聞かれたら、「根性論でなんとかしろ!」「超越者を感じろ!」「お前自身になれ!」と根性論を言っているようにしか思えなかった…。主客の分裂の解消に何か神秘的な、論理を超えたものを置くのもずるい、と思った。やはり主客の解消は東洋思想のほうに軍配が上がると思う。
限界状況論の、客観的二律背反という考えが面白かった。何をするにしても、必ず「価値」は「非価値」を生む。けれどもその非価値をなくすのではなくて、「責め」を意識して生きよ、というのは今まで聞いたことのない倫理で面白かった。
ちょくちょく挟まれる筆者の見解が薄っぺらかったので、作者は若い人だと思う。もうちょっと年を重ねてからのヤスパース論も読んでみたい。
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