流れ
若存若亡という言葉がある。信じたり、疑ったりを繰り返している状態のことだ。僕は今この状態なんだけれど、信仰というのは、流れに乗ることだと、実感している。実際に、本願力に乗ずるとか、そういう表現は真宗に多い。
そもそも「如来」というのは「如」から「来」るものという意味で、真理そのものがこの娑婆世界に表れているということだ。この「如」の流れがある。悟った人はこの「如」の流れに乗ずるのだろうが、「如来」の「勅命」を真受けにした人も、この「如」の流れに乗るのだと思う。
親鸞は、海のメタファーが好きだったが、僕は南無阿弥陀仏は川だと思う。川の流れに逆らって踏ん張っている人も、すっころんだら、川に流されていく。それが疑いのないということだと思う。
自然法爾だ。むしろ、川に流されないほうが、不自然だ。弥陀の願船に乗る。流れに乗る。身体の不自然な力みをなくす。
僕は、プールで一番、流れるプールが好きだった。流れるプールに浮き輪を置いてぷかぷか浮かんでいたあのときみたいに、南無阿弥陀仏の浮き輪で、命の流れに乗りたい
そもそも「如来」というのは「如」から「来」るものという意味で、真理そのものがこの娑婆世界に表れているということだ。この「如」の流れがある。悟った人はこの「如」の流れに乗ずるのだろうが、「如来」の「勅命」を真受けにした人も、この「如」の流れに乗るのだと思う。
親鸞は、海のメタファーが好きだったが、僕は南無阿弥陀仏は川だと思う。川の流れに逆らって踏ん張っている人も、すっころんだら、川に流されていく。それが疑いのないということだと思う。
自然法爾だ。むしろ、川に流されないほうが、不自然だ。弥陀の願船に乗る。流れに乗る。身体の不自然な力みをなくす。
僕は、プールで一番、流れるプールが好きだった。流れるプールに浮き輪を置いてぷかぷか浮かんでいたあのときみたいに、南無阿弥陀仏の浮き輪で、命の流れに乗りたい
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