母親が生きていてつらい
僕の母親は、去年の6月に火葬された。当時、父親に「人間って死んだらどうなると思う?」と聞くと「それは分からんけど、母さんはみんなの中に生きてると思うよ」と言われた。
みんなの「中に」とは一体どういう意味だろう。脳みその海馬の中に母親の記憶ニューロンができているということか?それとも箱のような「主観」の中に存在しているということか?
僕にとって今、母親は、「表象」ではないと思う。イメージではない。それは「感じる」ものだ。例えば、僕は靴を揃えるのが習慣だったので、母親にいつも褒められていた。だから散歩から帰ってきて靴を揃えていると、そこに母親が「いる」。死者はどこに存在しているのか。僕は「記憶の部屋」だけではないと思う。僕と靴の「あわい」に存在しているのだと思う。
現に、物質として現れることもある。犬を打とうとしていた友人にピュタゴラスが、「待て、その犬は前世では君の父親だった」と言ったという逸話は有名だけれど、死者がこのように生命として現れることもある。僕が前に書いた短歌。
どこにもいないということは、どこにでもいるということだ。母さんは僕の「中」に生きてるのでもないし、仏壇の中にいるのでもないし、墓の中にいるのでもない。いや、その全部に生きているといってもいいかもしれない。抗がん剤を見るたびに、母親の声がする。それは、箱のような「主観」でもないし、科学的な「客観」でもないところからの声だと思う。
花びらは散っても花は散らない。
母親が生きているのを感じると、母親が死んだことを思い出す。母親が生きていてつらい。でも僕が死ぬまでずっと生きててね。死んだら、お浄土で会おうね。
みんなの「中に」とは一体どういう意味だろう。脳みその海馬の中に母親の記憶ニューロンができているということか?それとも箱のような「主観」の中に存在しているということか?
僕にとって今、母親は、「表象」ではないと思う。イメージではない。それは「感じる」ものだ。例えば、僕は靴を揃えるのが習慣だったので、母親にいつも褒められていた。だから散歩から帰ってきて靴を揃えていると、そこに母親が「いる」。死者はどこに存在しているのか。僕は「記憶の部屋」だけではないと思う。僕と靴の「あわい」に存在しているのだと思う。
現に、物質として現れることもある。犬を打とうとしていた友人にピュタゴラスが、「待て、その犬は前世では君の父親だった」と言ったという逸話は有名だけれど、死者がこのように生命として現れることもある。僕が前に書いた短歌。
珍しき蝶を見るたび母想うあっちにもいたこっちにもいた
どこにもいないということは、どこにでもいるということだ。母さんは僕の「中」に生きてるのでもないし、仏壇の中にいるのでもないし、墓の中にいるのでもない。いや、その全部に生きているといってもいいかもしれない。抗がん剤を見るたびに、母親の声がする。それは、箱のような「主観」でもないし、科学的な「客観」でもないところからの声だと思う。
花びらは散っても花は散らない。
母親が生きているのを感じると、母親が死んだことを思い出す。母親が生きていてつらい。でも僕が死ぬまでずっと生きててね。死んだら、お浄土で会おうね。
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