平等
仏教はそもそも平等の宗教だと言える。究極の境地は「無分別智」と呼ばれて、自己も他者も区別しなくなった状態のことを指す。お釈迦様は別の弟子の反対があったにも関わらず、不可触民が弟子に加わることを拒まなかったし、女性も出家できる制度も作った。仏教にカースト制度はない。
仏は、自己と他者の継ぎ目がない。だから、阿弥陀如来の目から見ると、自分も衆生も同じだ。これが究極の慈悲だろう。悟っている阿弥陀如来の目から見ると、全員平等だ。
僕は、平等思想は正しいと思う。人類はみな、平等だと思う。けれどそれは、僕が社会的な弱者という立場にいるからだとも思う。平等思想は、弱者の思想である。
強者は、階級があったほうがいい、区別があったほうがいい。そのほうが得をするから。弱者が平等思想を叫ぶのも、強者が差別思想を叫ぶのも、「そのほうが得をするから」というお互いの我執に過ぎない。人間というのは、本当に救えないな、と思う。
平等思想も差別思想も我執だ。どちらが正しい、とかではなく、「得」の問題である。人間というのは、悲しい生き物だなあ。偽善かもしれないけど、いや、偽善だけれど、僕は、みんなに幸せになってほしいと思っている。偽善だなあ。
でも一つだけ、本当に平等なものがある。死だ。乞食も王様も死ぬ。ある禅者は「座禅から世界を見る」と言っていたが、それは「死」から世界を見ることだと思う。それは浄土から世界を見ることだと思う。
人間は全員死ぬ。死に階級はない。僕は、優しくなりたい。
仏は、自己と他者の継ぎ目がない。だから、阿弥陀如来の目から見ると、自分も衆生も同じだ。これが究極の慈悲だろう。悟っている阿弥陀如来の目から見ると、全員平等だ。
僕は、平等思想は正しいと思う。人類はみな、平等だと思う。けれどそれは、僕が社会的な弱者という立場にいるからだとも思う。平等思想は、弱者の思想である。
強者は、階級があったほうがいい、区別があったほうがいい。そのほうが得をするから。弱者が平等思想を叫ぶのも、強者が差別思想を叫ぶのも、「そのほうが得をするから」というお互いの我執に過ぎない。人間というのは、本当に救えないな、と思う。
平等思想も差別思想も我執だ。どちらが正しい、とかではなく、「得」の問題である。人間というのは、悲しい生き物だなあ。偽善かもしれないけど、いや、偽善だけれど、僕は、みんなに幸せになってほしいと思っている。偽善だなあ。
でも一つだけ、本当に平等なものがある。死だ。乞食も王様も死ぬ。ある禅者は「座禅から世界を見る」と言っていたが、それは「死」から世界を見ることだと思う。それは浄土から世界を見ることだと思う。
人間は全員死ぬ。死に階級はない。僕は、優しくなりたい。
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