人生入門

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一億総境界性人格障害

 ボーダーの人間と関わると「あなたは"自分"があるから羨ましい」と言われることが多い。境界性人格障害の人間には「自分」がない、と関わってて強く感じる。だから付き合ってる男性に影響されることが多いし、「自我」があるように見える異性に惹かれることが多い。
 さて、自己とは何か?昨日読んだ坊さんの本に「自己という存在はそもそも他者が内包されている」と書かれていたが、どういうことか。それは人間というのは「他者」に認められないと、「自己」の存立が危ういということである。つまり「あなたは〇〇くんだね」「あなたは◇◇という人だよね」ということを他者に絶えず確認をし続けなければ、「自己」は存続できない。
 いや、「他者」なんていなくても「自分」は「自分」だ、と強弁する人もいるだろうが、それは絶対に違う。「トゥルーマンショー」という面白い映画がある。「トゥルーマン」という主人公がおり、実はその主人公の生は全世界にテレビ番組で配信されている。生まれた時からバカでかい「映画のセット」の中で暮らしていて、トゥルーマンの周りの人間は全て「役者」である。その役者達から「トゥルーマン」として扱われている主人公は、トゥルーマンでしかあり得ない。映画はトゥルーマンが舞台の外に出ようとするところで終わるのだが、舞台を出てもトゥルーマンであることは変わらない。みんなからは「トゥルーマンショーに出てた人」という烙印を押され、自分もそのように自己規定をする。僕の勝手な妄想だが、監督は「完全に他者に侵された自己」というものの原型を示してみたかったのだと思う。それが「トゥルーマン(真実の人間)」だというのは、強烈な皮肉である。
 自分が記憶喪失になり、自分が誰であるかという記憶がなくなる。他者に「あなたはBという人間ですよ」と言われ続けると、自分はBという人間になる。記憶喪失にならずとも、身の回りの他者が全員「あなたはヒカキンですよ」と言い続けてくるとすると、発狂してしまうか、ヒカキンとして生きるか、自殺するしかなくなるだろう。逆に、「俺は天皇である」と僕が勝手に宣言したとしても、誰もそれを認めなかったら、僕は天皇ではない。
 現代日本は人と人とのつながりがなくなっていると言われて久しいが、つまりそれは「あなたはこれこれこういう人ですよ」と言ってくれる人がほぼいなくなったということだ。昔なら村の住人の何十人か何百人かが自分のことを濃密に「こういう人ですよ」と認めてくれていたので「自己」が存在していたが、それはもうなくなった。自分の「根拠」が消えうせた。
 だから、みんな必死で自分をどういう人かアピールしようとする。それは金持ちであったり詩人であったり歌手であったりボカロPであったりするかもしれないが、それは他人から「あなたはこういう人(詩人、金持ち、幸福な人)ですよ」と言われ続けないと、根拠のない「自己」が危うくなるからだ。
 初めの話に戻ると、境界性人格障害の人は、親に愛されなかった人が多い。人生の初めの他者に「あなたはこういう人ですよ」という「自己」を貰えなかった。だから必死に自分をアピールしたり、恋人に認められるように死に物狂いになったり、根拠のない自分という悪夢から逃れるように依存症になったりする。精神病を考えることで人間の本質が分かるようになるというのはよく言われるが、境界性人格障害は、まさに現代に生まれるべくして生まれた病気だと思う。狂おしいほど他者からの承認を求める。そうしなければ「自分」が誰なのか分からないから。
 僕は多かれ少なかれ今の若者はボーダー気味であると感じる。誰もかれもが他者に認められようと莫大な努力をする。俺はオタクだぞとグッズを買いあさる。俺は賢いんだぞと哲学の知識をひけらかす。けれどもその「確認」は「他者」という無常、危ういものに支えられているので、いつかは自己の無根拠さが露呈する。才能がなくなれば、飽きられれば詩人ではなくなるし、引退すれば社長ではなくなるし、家族が死ねば家族の一員ではなくなる。リタイアした後の仕事人間が早死にするのは自己がなくなるからである。
 そうすると、この「無根拠な自己」というものを引き受ける覚悟で生きていくか、「完全なる他者」に支えられて「根拠のある自己」として生きていくか、どちらかをしないと不安は常に付きまとう。前者が聖道門であり、後者が浄土教である。
 

救い

 今日じいちゃんが死んだ。人間は死ぬんだなと改めて思った。ばあちゃんが「楽なところへ行ってね」と言っていた。僕はそれがどこか分からなかった。じいちゃんの体は堅かった。
 死を強く意識すると、心の底から救いを求める自分がいた。この感情だけはフェイクではない。僕は煩悩にまみれた嘘しかつかないが、この感情だけは本物だと言える。救われたい。
 じいちゃんが死ぬ直前に、老師と少年という本を読んだ。救われない話だった。僕はこういう物語をいくつも知っている。「死」や「虚無」が頭から離れなくて、絶望している人間が、救われないまま、不幸なまま死んでいく話。パッと思いつくだけで、12人が頭に浮かんだ。神も信じられない、悟りも信じられない、なんで生きてるのか分からない、死ぬのが怖い、そしてそのまま死んでいく。現在僕はこの人達とまったく同じ迷宮にハマりこんでいるのだが、その人達のことは反面教師にしたいと思う。僕は、救われたい。

 僕に言わせると、人間には4種類いる。
1死とか深く考えない人
2神や阿弥陀仏を信じる人
3仏教で悟った人
4絶望して何も信じられない人

 4の人間は限りなく不幸だ。1の人間はその次に不幸だ。限りない安らぎ、魂の渇きがない人は、2か3の人間である。

 僕は某新興宗教が壊滅した時ぐらいに生まれて、科学教育をモロ受けた世代だったので、宗教というものに懐疑的だったのだが、この1年、本気で仏教を学んでみると、こんな優れたものがなんで埋まっているんだろうという気持ちになった。でも僕は4番の人間なので、「悟り」というものが信じられない。ブッダは「来て、観よ」というが、僕は弱い人間なので、とても修行に耐えられそうにない。仏教の哲学や瞑想は本当に優れたもので、そのおかげでうつ病がだいぶ改善したり、希望が見えてきたりしたが、最近はちょうど「悟り」というものに懐疑的になっていたので(この辺はまたまとめて書きたい)、この辺で一旦仏教は少し休んで、来月からはキリスト教の勉強をしようと思う。ちょうど仏教を学び始めて1年ぐらいだし、じいちゃんがそう言っている気もする。キリスト教も、日本的な偏見を取り除くと、素晴らしい教えが広がっているのだと思う。仏教も、平均的な日本人が思っているほど単純なものではなかったし、キリスト教も、内部から勉強することによって、得るものが必ずある。仏教もキリスト教もエゴ=煩悩=原罪を癒すところに真面目があるので、近いものはあると思う。とにかく救われたい。4番の人のように生きたくない。
 救われたい。この気持ちだけは本当に嘘じゃない。僕はブログの記事の9割が「死」についてである。このままだと頭がおかしくなってしまう。救われたい。救われたい。

とりとめのない

欲望は、
海水を飲むことに似ています。

飲めば飲むだけ、
喉が渇くのです。———ダライ・ラマ14世


 承認されたい、認められたいという思いが人並みにある。だからツイッターをやることもあるし、アマチュアの詩のWEB誌に投稿したこともあるんだが、どちらも気持ち悪くてやめてしまった。ツイッターをやることは承認欲求を満たすために安易な道だと思うし(かっこつけた「センスのいい」ツイートをしてればフォロワーも増えたしふぁぼも増えた)ネット同人誌なんかは本当に行き場のない承認欲求や自己顕示欲を満たすための格好の場所だと思うが、僕は「これはキリがないな 一生やり続けるんだろうか 洒落た文章を作るのも疲れたな」と思ってやめた。でも、今でもやりたいなと思うことはある。だって「気持ちがいい」から。麻薬と変わらない。ふぁぼられたら脳内物質が放出されて快感だが、それは幸福ではない。
 欲望や渇愛が、苦しみの元だという仏教の主張は考えれば考えるほど正しいが、「気持ちのいい」ことが諦めきれない。誰かに認められたいという気持ちが湯水のごとくわいてくる。これを断ち切るのが「幸福」だとは分かっているが、気持ちのいいことをやりたくなる。

 昨日哲学科に行ってる青年と喋ったんだが、その青年は「考える」ことが好きらしい。僕も人よりいろいろ考えているほうだと思うが、そんな僕が「思考」を観察していると、思考の本質が分かってくる。浮かんでは消えて、浮かんでは消える泡のようなものにすぎず、高尚なものでも何でもない。正体を観察してみると、本当にくだらないものだった。欲望や怒りは未だに「くだらない」と看破して捨てきることができないが、「思考」はくだらないと断言できる。僕はもう進んで「思考」することはない。パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、「人間は自分の部屋でじっとしていることができないから不幸だ」とも言った。なぜじっとしていられないかと言えば「考えてしまう」からである。ここが僕がパスカルと袂を分かつ点である。人間は考えないほうがいい、自分の部屋に孤独でいることが耐えられるから。
 僕も知的好奇心に燃えている時期もあったが、それは酔いのようなものだったなと今では思う。何かを知るのが楽しくてしょうがなかったが、そんなのは酒と何も変わらない。何かを考えて文字にするのも口にするのも、ずうっと観察していると「なんだこんなものか」ということが分かってきて、萎えた。こういう風に気持ちのいいことを徐々に萎えさせていって、本当に幸福になりたい。

誠実な表現

「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。———フリードリヒ・ニーチェ


 表現の偽瞞と、誠実さとの問題に関して、確かな認識を持ち、自己の思想を提出する方法について許容のない判断の眼をもつこと。
 このことが僕をして何も言えなくすると共に、何でも言えるようにした。———原口統三


 本を探すのがだるいので引用しないが、フェルディナンドペソア?みたいな人も「芸術家が真っ先にしなきゃいけないことは誠実さと向き合うこと」みたいなこと言ってたと思う。 
 僕はなぜか知らないが表現欲求が強く、1,2年前はアマチュアのWEB雑誌みたいなのに詩を頼まれたので書いていたことがある。最初は真面目に書いていたんだけれど、だんだんしょうもなく感じられてきて、最後は詩人は嘘つきだから嫌いみたいな詩を書いて、バックれた。他人様に自分の書いた言葉を見せつける下品な行為が自分で許せなかった。
 昔から自分のことを「精神的な潔癖症がある」と言っているんだけれど、こういうタイプの人間は哲学者や文学者に案外多くいる。フランスのモラリストあたりは精神的潔癖症が多く、それに影響を受けている芥川龍之介とかも自分と同類の匂いがする。
 これもフェルディナンドペソアが言ってたと思うが、「芸術家(詩人?)は無意識で何か凄い作品を作るみたいな幻想をそろそろやめよう」と言っていた。僕は自意識過剰気味だし才能がないので、何かを作るときに過度に「意識的」になりすぎるのかもしれないが、芸術家が天才的なひらめきによって、神に憑依されたごとく、何かを仕上げるというのは確かに嘘のような気がする。何かを「発表」する時点で、「鏡」に反射された作品のように思えてしまう。つまり、他者がどう見るかを気にしながら。他者の需要に答えるように、作品が作られているように見える。これが悪いと言っているのではなくて、ただ「卑しい」だけだ。僕はこれができない。2ちゃんねるなどでよく「みんな夜はセックスしてるくせによく澄ました顔で外歩けるよな」みたいな書き込みがあるが、そんな感覚。「他人に認められたい、褒められたい、お金が欲しい」というバカでかい自己顕示欲や金銭欲があるのに、澄ました顔でシュッとした作品を提出する。それが僕にはめちゃくちゃ気持ちが悪い。そして僕と同じように感じる人間もいるにはいるらしく、それがこうじて自殺してしまった青年もいる。僕らみたいな精神的な潔癖症からすれば、何も考えずに表現=排泄物を他人様の目に晒すのはある種の愚鈍さ、鈍感さが必要だと見えてしまうが、「普通の」人間からしたら僕らが異常なのだと思う。

 そもそも人間は「表現」などなくても生きていられる。表現など人生の「贅肉」である。それを正当化するような論理は少数しか存在しえない気がする。「慈悲」か「狂気」ぐらいしかない。前者の典型がブッダや宮沢賢治であり、後者の典型はアウトサイダーアートである。
 普通の人間が表現をする意図なんて「大勢に認められたい、モテたい」以外にあるわけがない。表現の意図と表現内容のギャップが、気色悪く感じてしまう。こういう歌だったら許せる。

 あ〜認められたいな〜お金欲しいな〜みんなに褒められたいな〜
 センスがあるって言われたいな〜 だって俺はセンスあるし〜
 大勢にキャーキャー言われたいな〜 ファンの女食いてえな〜
 音楽楽しいな〜 認められたいな〜 お金欲しいな〜


 どんな表現もこれが通奏低音として響いているので、気持ちが悪い。

 澤木興道というお坊さん曰く「宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである」ということなので、宗教だけはリアルだと思うが、その話は長くなりそうなので寝ます

救い 2つ

 人間は物語る生き物だとよく言われるが、現代において「信仰」されている物語は「俺の」「私の」物語でしかない。最近は死ぬ間際の爺さん婆さんが終活とか言って「自分史」を作るのが流行っているらしいが、「俺の」物語とは、これである。
 自分は貧しい家庭で生まれた、苦労した、若い頃に病気をして可哀そうな人間だ、仕事で順調に出世していったが、子供が生まれてからは妻と諍いが増えて、離婚した、自分は何も悪くないのに、社会が悪いので不幸になった、夜の女として若い頃はブイブイ言わせていた、若い頃に暴走族をしてかっこよかった、突然癌になった可哀そうな人間だ、このような物語である。現代では人間はこの物語しかもっていないが、昔はもっとスケールの大きい物語を持っていた。
 例えば法蔵菩薩が修行をして阿弥陀仏になり、阿弥陀仏が自分を救ってくれる。例えばアマテラスナントカの神からの子孫である天皇の息子である日本人は戦争をしなければならない。例えばイエスキリストが原罪を贖ってくれたので人間は死なない、など。これらの、いわゆる「カラフル」な物語を濃密に自分のものとしている人間がいないではないが、これからはどんどん減っていくし、端的に言ってこんな物語は大嘘である。科学を知らなかった人間の妄想である。(臨死体験などを見るとそうじゃない可能性も捨てきれないが、それは今は置く)
 個人の物語は、どうしようもなくしょうもないものである。そんなものは自分の頭の中にしかない。自分は病気になった可哀そうな人間である、自分は歌手になって成功した人間である、自分は将来作家として成功する人間である、という物語は、「ドラゴンクエスト」となんら変わりがない。物語は基本的に理想的な「過去」と「未来」をねつ造して、現在の自分を物語るものだが、過去も未来も現実には存在せず、本当に存在するのは「今」でしかないので、どんな物語も妄想でしかない。僕が「僕は肺の病気のせいで、精神病のせいで大学に行けなかった不幸な青年である」という自己規定をしても、それは頭の中にある自分の願望混じりの妄想である。「現実」は、今PCの前でキーボードを打っている指の感覚である。

 現代において救いを求めるならば、2つの方向があると思う。1つは古代人が考えた妄想に完全にハマりこんで、酔うこと。これができる人間は超幸せである。僕はできない。もう1つはどのような自己規定、物語を作ることもなく、「今」を生きることである。妄想的な自己規定、物語がなければ、「自分」は存在しない。「今」が存在するのみである。何者にもなってはいけない。中途半端が一番よくない。古代人の妄想の中で生きるか、何者にもならずに生きること。自分は失敗した、成功した作家である・自分は〜〜〜である、こういった中途半端な物語を丸ごと全部捨てれば、死ぬ「自分」は消え去る。
 

土台 背景

 禅仏教でいわれる「鏡」「無位の真人」山下良道の言う「青空」チベット仏教の言う「本性」ラマナマハリシの言う「真我」澤木興道の言う「宇宙いっぱい」ブッダの言う「涅槃」アシュターヴァクラ・ギーターに書いてある「気づき」など、東洋思想に出てくる「無常ではないもの」「無常の"土台"になっているもの」(と思われるもの)について最近探求している。これらはあらゆる経験の土台、背景になっているもので、今風に言えば「意識」とも言える。
 無常なるもの——「自分」や「本」や「恋人」や「成功」など——の土台となっているもの、無常なるものから影響を受けることなく、常に存在しているもの。これは不滅なのかもしれない。現代物理学でも「意識」は単なる物質に還元されない観察者として重要なファクターになっているとよく聞く。ブッダは涅槃を、無常ではないと言った。諸行無常の諸行には、「涅槃」は含まれていない。こういったものを自分の心臓よりも自分に近いものと言った人がいたが、僕はそれよりも法華経の例えが好きだ。貧乏な男がいる、それをしのびなく思った友達が、眠っている貧乏な男のポケットに高価な宝石を入れて立ち去る。それに気づかない貧乏な男はずっと貧乏のままだが、ある時その友達に出会って「君は大金持ちじゃないか、あげた宝石はどうしたんだ」と尋ねる。この宝石が涅槃で、この友達がブッダである。宝石は限りなく近いところにあるが、誰も気づいていない。
 科学に明るいチベット仏教僧によると、瞑想をしていると、概念的思考がどんどん少なくなってくるらしい。つまり禅仏教的に言えば、鏡についている塵が、少しずつ落ちてくる。「自分」という思考、概念の汚れを少しずつふき取ると、無常な経験の土台になっている「真我」が現れるのかもしれない。
 ヒンドゥー教や大乗仏教、老荘思想などはその伝統内のタームを使っているのでそれぞれ別のモノのように思えるが、同じ生物である人類が、瞑想などの探求をした末に現れるものは、そういった文化的背景を取り除くと、全て同じ体験に基づいた表現だと思う。僕は瞑想などの東洋的な探求は「実験」だと思っているんだが、その実験に基づいた結果は、伝統や文化と言ったものに影響を受けるとは思えない。なんか見えそうで見えないが、「自分」という概念を超えた「何か」を掴みたい。どの文化でも、掴もうとすると逃げると言っているので、慎重に扱わないといけないが。

神なき人間の惨めさ

 神なき人間は全員惨めであるというパスカルの主張に、100%同意する。無限大の宇宙の中の塵、死刑台を待っている死刑囚、惨めさから目をそらすために気晴らしをする王、全てが全く正しい。生まれて老いて病んで死ぬ。神の王国は到来しない。無目的に時間は進んでいき、待っているのは老いと病と死。東京の電車に乗れば神なき人間がどれだけ惨めなのかが分かる。なんの目的もなく労働し、なんの目的もなく家に帰り、なんの目的もなく死ぬ。生に意味も目的もない。だから気晴らしをする。「人生は死ぬまでの暇つぶし」という格言があるが、これは日本特有なんじゃないかと思う。ここまで信仰心のない国も少ないんじゃないか。11世紀のペルシャの詩に「ルバイヤート」という詩があり、内容は「神がいるかどうかも分からないしどこから来てどこに行くのかもわからない。だから死ぬまで酒を飲もう」というはっちゃけた内容で、1000年も歴史の淘汰を勝ち残ってきた詩にしてはしょうもない気がするが、自分が日本人だから当たり前すぎてしょうもないと思ってしまうのだと思う。この詩集は岩波の好きな本ランキングにも載っていて、どうも日本人好みらしい。どこから来てどこへ行くのかも分からんから、死ぬまで酒を飲もう。
 神なき人間は、全員惨めである。神なき人間には「苦しみ」も無目的である。苦しみは神の「御計らい」や「試練」などではなく、「不条理」だ。神のいない人間にとって、「苦しみ」は自らの準拠枠に回収できない。僕は幼い頃、手術を繰り返したのだが、「なぜ僕が」といった感情に常に襲われていた。神が存在していれば楽である。「神が試練を与えたから」「全ては神の御計らいである」
 惨めな人間は、気晴らしをする。自分の「不条理」から目をそらすために、何かに「ハマる」必要がある。無目的な労働をする苦しみ、パートナーと別れた苦しみ、家族から虐げられた苦しみを頭の片隅に追いやるために、何かにハマる。何かに執着をする。「自分」のこと、「人生」のことを考えたくないので、何かに執着をする。金や性に執着することで「不条理」や「苦しみ」を一時的に忘れることができるが、それは対症療法にしかならない。自分の中にある「絶対的な惨めさ」を克服しない限り、「完全に幸福な人生」にならない限り、「不条理」は自分に何度も牙をむく。神がいない人間は、人生の不条理から目をそらすのではなく、人生の根幹から治療しなければならない。

死について

「僕は死ぬのが恐ろしいんだ。まだはっきりと覚えている、小学生の時だ。僕は自分は18歳で成長が止まる奇病だと思い込んでいた。いや、12歳だったかな。まあとにかく、自分は死なないと思っていたわけだ。そんな僕の淡い妄想が崩れ落ちた夜があった。前兆もなく、突然がらんどうの無の中に放り込まれた。君にもそういう経験があるだろう?布団の中で、胸には穴が穿たれ、手足が痺れ、目を閉じればその瞬間死んでしまうような気がする。」
『ああ、俺にもそういう時期があったよ。それで?』
「うん、それで僕は一日中死後の世界のことを考えていたよ。学校まで徒歩で通っていたんだが、登校中はもっぱら天国や地獄や無について考えていたってわけ」
『嫌な小学生だな。』
「理科で進化論を習ったときは、目が眩んだよ。叫びだしたい気分だった。じゃあなんのために生きているんだって。僕たちはどこから来てどこへ行くのか。僕はまだ幼かった。人生の虚無性というよりは、死の恐怖に怯えていた。夜中に恐ろしくなって、飛び起き、
面白くもない深夜番組を見つめていた。死は恐ろしい。そうだろう?」
『そりゃそうだが、それでお前は結局なんの話がしたいんだ?』
「そりゃあ天国や地獄や無についての話に決まっているだろう。僕は死の影に怯えながらいろんな書物を読み漁ったよ。人類学、宗教学、哲学、生物学・・・・・・・・・。」
『ごくろうなこった』
「君は死にたいと思ったことがあるか」
『そりゃあね』
「なぜ死ななかった?」
『怖いからさ』
「何が?」
『無が』
「それじゃ死後の世界は信じないんだね」
『そうだな。俺は無宗教の唯物主義者だ。』
「僕は無宗教の不可知論者だ。僕は死とは何か知ることはできないと思っている。でも死について少しでも近づいてみたい。喉に引っかかった死にできるだけ親しみを持ちたいんだ。」
『死。』
「死。死は生物学的なモノだ。@生物は死ぬ。A人間は生物である。B人間は死ぬ。簡単な三段論法さ。ネオダーウィニズムの旗手ドーキンスによれば、僕たちは遺伝子を乗せた"機械"に過ぎない。僕たちは遺伝子という情報を運ぶための奴隷だ。それ以上でもそれ以下でもない。運ぶ"ため"と言ったが、これは僕たちが遺伝子を運ぶ"ため"に生まれた、ということではないよ。複製されるという情報を持った分子が生き延びてきたというだけの話。全く複製されない遺伝子と複製を繰り返す遺伝子があれば、後者の遺伝子の絶対数が増えるのは当然だろう?そして、複製分子同士の競争に勝つために、遺伝子は"生物"で武装するようになった。」
『よくわからんが、とにかく生物は乗り物に過ぎないってことだな。』
「そうだ。ここから出てくる結論は一つ。自己複製子によって操られている機械にすぎない。よって生物個体としての生の意味はない、ということになる。これが現代に広く受け入れられている死についての認識ではないかな。」
『うーん…。』
「シュレーディンガーという名前を聞いたことがあるだろう。シュレーディンガーの猫という思考実験で有名な物理学者だ。そのシュレーディンガーは晩年、生物を完全に物理学の語彙で表現できると考えた。デカルトより徹底した生物機械論を唱えたわけだ。」
『ふーん。そんなもんかね。まあ俺も魂だの精神だの信じないけどな。』
「君と同じ唯物主義者だったってこと。この唯物論の反対にあるのが観念論だ。プラトンぐらい君でも聞いたことがあるだろう。プラトンは対話篇において、魂の存在や死後の世界について説いたんだ。死は肉体という牢獄からの脱獄にすぎないとね。人間は死んだあと、ハーデスの裁きを受け、善人は天国へ、悪人は地獄に…。」
『そうあってほしいものだけどね』
「そうかもしれないよ。実際、この説はキリスト教へ取り込まれ、近代まで人々の死生観を支配していた。死を神話<ミュトス>によって否認していたんだ。」
『おめでたいな。』
「僕もそう思う。ただ古代や中世にも死後は無であると考えた人がいる。それが君の祖先、古代唯物論者エピクロスだ。エピクロスは死を冷徹に見つめた。そしてある天才的なアイデアを閃くんだ。それは【死は無よりもとるに足りないものである】という教説だ。生きている間は死を経験することはできない。しかし、死んでしまえば、死は経験することができない。僕たちは、死とすれ違うが、正面衝突はしないってわけ。考えてみれば当たり前のことだね。すこぶる論理的だ。では、なんで僕たちはこの教説を聞いても死の影に怯えるのだろう。僕はこの非合理的な恐怖は生物学的なものにすぎないと思う。人は"無"が恐ろしいと言う。本当にそうだろうか?無は無だ。僕たちは生物であるから、生存欲求を持っている。猫やミミズと持っているものと質的には全く同じだ。そしてこれは"欲求"だ。性欲や食欲と同じ次元にある。理性の場面では、"死"はエピクロスの教説によって、もはや恐怖ではなくなっている。今問題なのは生物学的な生存欲求だけだ。そしてこの生存欲求は進化論で説明できる。」
『それで?』
「この生存欲求は本当にただの"欲望”にすぎない。性欲や食欲や生存欲求は進化論で説明できると言ったよね。それを"理解”することが……。」
 そこまで喋って、僕は全てが馬鹿らしく、みみっちく、不浄なものに思われた。死は、どんなに言葉を尽くしても、なにか得体のしれない残滓をまき散らすのだ。僕は蒼白の顔でM君に別れを告げ、家に帰った。ゲームをした。楽しかった。

人間

 最近、「人知の及ばない」って言葉が文字通りに感じられるようになった。例えば 死後 神 生の意味 思考の限界 宇宙の果て など。
 人間の認識の限界は必ずある。そんな単純なことをみんな忘れている。近代の啓蒙主義の残香だと思う。僕は自分史が哲学史とパラレルになってると考えることがある。原始的な信仰(僕だけは死なないと思っていた)から近代的な哲学へ(前にも書いた通り厳格な原子論者だった)。そして今は思想的モラトリアムといったところか。そんな僕が科学主義者だった中学時代、科学が全てを明らかにしてくれるという素朴な信仰があった。おそらくゲームの進化に圧倒されていたのだと思う。実際にテレビゲームをはじめ、身の回りのものがことごとく進化していった。科学主義者になるのも無理はないと思う。
 でも僕は、もうそんなナイーブな信仰を信じることができなくなってしまった。人間の認識には限界がある。科学では分からないことがある。こういった当たり前のことが内蔵から実感できるようになった。
 物事には必ず原因があるとするならば、世界には第一原因がなければならない。すなわち神が。これは大昔の神の存在証明だが、人間の思考の限界といった気がする。
 物事は必ず空間に内在していなければならない。とすれば一番外の空間は何物にも内在していないことになる。人間の思考の限界っぽい。
 「人知の及ばない」場所に神を要請するのは間違ってはいない気がする。
 
 

人間

アリストテレスの四原因論に従って勉強しようと思う
質量因=物理学、量子力学
作用因=進化論、物理学
形相因=生物学 哲学
目的因=宗教 哲学

だいぶ適当だけどこんなもんっぽい
目的因を復権させたいよね
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