土台 背景
禅仏教でいわれる「鏡」「無位の真人」山下良道の言う「青空」チベット仏教の言う「本性」ラマナマハリシの言う「真我」澤木興道の言う「宇宙いっぱい」ブッダの言う「涅槃」アシュターヴァクラ・ギーターに書いてある「気づき」など、東洋思想に出てくる「無常ではないもの」「無常の"土台"になっているもの」(と思われるもの)について最近探求している。これらはあらゆる経験の土台、背景になっているもので、今風に言えば「意識」とも言える。
無常なるもの——「自分」や「本」や「恋人」や「成功」など——の土台となっているもの、無常なるものから影響を受けることなく、常に存在しているもの。これは不滅なのかもしれない。現代物理学でも「意識」は単なる物質に還元されない観察者として重要なファクターになっているとよく聞く。ブッダは涅槃を、無常ではないと言った。諸行無常の諸行には、「涅槃」は含まれていない。こういったものを自分の心臓よりも自分に近いものと言った人がいたが、僕はそれよりも法華経の例えが好きだ。貧乏な男がいる、それをしのびなく思った友達が、眠っている貧乏な男のポケットに高価な宝石を入れて立ち去る。それに気づかない貧乏な男はずっと貧乏のままだが、ある時その友達に出会って「君は大金持ちじゃないか、あげた宝石はどうしたんだ」と尋ねる。この宝石が涅槃で、この友達がブッダである。宝石は限りなく近いところにあるが、誰も気づいていない。
科学に明るいチベット仏教僧によると、瞑想をしていると、概念的思考がどんどん少なくなってくるらしい。つまり禅仏教的に言えば、鏡についている塵が、少しずつ落ちてくる。「自分」という思考、概念の汚れを少しずつふき取ると、無常な経験の土台になっている「真我」が現れるのかもしれない。
ヒンドゥー教や大乗仏教、老荘思想などはその伝統内のタームを使っているのでそれぞれ別のモノのように思えるが、同じ生物である人類が、瞑想などの探求をした末に現れるものは、そういった文化的背景を取り除くと、全て同じ体験に基づいた表現だと思う。僕は瞑想などの東洋的な探求は「実験」だと思っているんだが、その実験に基づいた結果は、伝統や文化と言ったものに影響を受けるとは思えない。なんか見えそうで見えないが、「自分」という概念を超えた「何か」を掴みたい。どの文化でも、掴もうとすると逃げると言っているので、慎重に扱わないといけないが。
無常なるもの——「自分」や「本」や「恋人」や「成功」など——の土台となっているもの、無常なるものから影響を受けることなく、常に存在しているもの。これは不滅なのかもしれない。現代物理学でも「意識」は単なる物質に還元されない観察者として重要なファクターになっているとよく聞く。ブッダは涅槃を、無常ではないと言った。諸行無常の諸行には、「涅槃」は含まれていない。こういったものを自分の心臓よりも自分に近いものと言った人がいたが、僕はそれよりも法華経の例えが好きだ。貧乏な男がいる、それをしのびなく思った友達が、眠っている貧乏な男のポケットに高価な宝石を入れて立ち去る。それに気づかない貧乏な男はずっと貧乏のままだが、ある時その友達に出会って「君は大金持ちじゃないか、あげた宝石はどうしたんだ」と尋ねる。この宝石が涅槃で、この友達がブッダである。宝石は限りなく近いところにあるが、誰も気づいていない。
科学に明るいチベット仏教僧によると、瞑想をしていると、概念的思考がどんどん少なくなってくるらしい。つまり禅仏教的に言えば、鏡についている塵が、少しずつ落ちてくる。「自分」という思考、概念の汚れを少しずつふき取ると、無常な経験の土台になっている「真我」が現れるのかもしれない。
ヒンドゥー教や大乗仏教、老荘思想などはその伝統内のタームを使っているのでそれぞれ別のモノのように思えるが、同じ生物である人類が、瞑想などの探求をした末に現れるものは、そういった文化的背景を取り除くと、全て同じ体験に基づいた表現だと思う。僕は瞑想などの東洋的な探求は「実験」だと思っているんだが、その実験に基づいた結果は、伝統や文化と言ったものに影響を受けるとは思えない。なんか見えそうで見えないが、「自分」という概念を超えた「何か」を掴みたい。どの文化でも、掴もうとすると逃げると言っているので、慎重に扱わないといけないが。
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