一億総境界性人格障害
ボーダーの人間と関わると「あなたは"自分"があるから羨ましい」と言われることが多い。境界性人格障害の人間には「自分」がない、と関わってて強く感じる。だから付き合ってる男性に影響されることが多いし、「自我」があるように見える異性に惹かれることが多い。
さて、自己とは何か?昨日読んだ坊さんの本に「自己という存在はそもそも他者が内包されている」と書かれていたが、どういうことか。それは人間というのは「他者」に認められないと、「自己」の存立が危ういということである。つまり「あなたは〇〇くんだね」「あなたは◇◇という人だよね」ということを他者に絶えず確認をし続けなければ、「自己」は存続できない。
いや、「他者」なんていなくても「自分」は「自分」だ、と強弁する人もいるだろうが、それは絶対に違う。「トゥルーマンショー」という面白い映画がある。「トゥルーマン」という主人公がおり、実はその主人公の生は全世界にテレビ番組で配信されている。生まれた時からバカでかい「映画のセット」の中で暮らしていて、トゥルーマンの周りの人間は全て「役者」である。その役者達から「トゥルーマン」として扱われている主人公は、トゥルーマンでしかあり得ない。映画はトゥルーマンが舞台の外に出ようとするところで終わるのだが、舞台を出てもトゥルーマンであることは変わらない。みんなからは「トゥルーマンショーに出てた人」という烙印を押され、自分もそのように自己規定をする。僕の勝手な妄想だが、監督は「完全に他者に侵された自己」というものの原型を示してみたかったのだと思う。それが「トゥルーマン(真実の人間)」だというのは、強烈な皮肉である。
自分が記憶喪失になり、自分が誰であるかという記憶がなくなる。他者に「あなたはBという人間ですよ」と言われ続けると、自分はBという人間になる。記憶喪失にならずとも、身の回りの他者が全員「あなたはヒカキンですよ」と言い続けてくるとすると、発狂してしまうか、ヒカキンとして生きるか、自殺するしかなくなるだろう。逆に、「俺は天皇である」と僕が勝手に宣言したとしても、誰もそれを認めなかったら、僕は天皇ではない。
現代日本は人と人とのつながりがなくなっていると言われて久しいが、つまりそれは「あなたはこれこれこういう人ですよ」と言ってくれる人がほぼいなくなったということだ。昔なら村の住人の何十人か何百人かが自分のことを濃密に「こういう人ですよ」と認めてくれていたので「自己」が存在していたが、それはもうなくなった。自分の「根拠」が消えうせた。
だから、みんな必死で自分をどういう人かアピールしようとする。それは金持ちであったり詩人であったり歌手であったりボカロPであったりするかもしれないが、それは他人から「あなたはこういう人(詩人、金持ち、幸福な人)ですよ」と言われ続けないと、根拠のない「自己」が危うくなるからだ。
初めの話に戻ると、境界性人格障害の人は、親に愛されなかった人が多い。人生の初めの他者に「あなたはこういう人ですよ」という「自己」を貰えなかった。だから必死に自分をアピールしたり、恋人に認められるように死に物狂いになったり、根拠のない自分という悪夢から逃れるように依存症になったりする。精神病を考えることで人間の本質が分かるようになるというのはよく言われるが、境界性人格障害は、まさに現代に生まれるべくして生まれた病気だと思う。狂おしいほど他者からの承認を求める。そうしなければ「自分」が誰なのか分からないから。
僕は多かれ少なかれ今の若者はボーダー気味であると感じる。誰もかれもが他者に認められようと莫大な努力をする。俺はオタクだぞとグッズを買いあさる。俺は賢いんだぞと哲学の知識をひけらかす。けれどもその「確認」は「他者」という無常、危ういものに支えられているので、いつかは自己の無根拠さが露呈する。才能がなくなれば、飽きられれば詩人ではなくなるし、引退すれば社長ではなくなるし、家族が死ねば家族の一員ではなくなる。リタイアした後の仕事人間が早死にするのは自己がなくなるからである。
そうすると、この「無根拠な自己」というものを引き受ける覚悟で生きていくか、「完全なる他者」に支えられて「根拠のある自己」として生きていくか、どちらかをしないと不安は常に付きまとう。前者が聖道門であり、後者が浄土教である。
さて、自己とは何か?昨日読んだ坊さんの本に「自己という存在はそもそも他者が内包されている」と書かれていたが、どういうことか。それは人間というのは「他者」に認められないと、「自己」の存立が危ういということである。つまり「あなたは〇〇くんだね」「あなたは◇◇という人だよね」ということを他者に絶えず確認をし続けなければ、「自己」は存続できない。
いや、「他者」なんていなくても「自分」は「自分」だ、と強弁する人もいるだろうが、それは絶対に違う。「トゥルーマンショー」という面白い映画がある。「トゥルーマン」という主人公がおり、実はその主人公の生は全世界にテレビ番組で配信されている。生まれた時からバカでかい「映画のセット」の中で暮らしていて、トゥルーマンの周りの人間は全て「役者」である。その役者達から「トゥルーマン」として扱われている主人公は、トゥルーマンでしかあり得ない。映画はトゥルーマンが舞台の外に出ようとするところで終わるのだが、舞台を出てもトゥルーマンであることは変わらない。みんなからは「トゥルーマンショーに出てた人」という烙印を押され、自分もそのように自己規定をする。僕の勝手な妄想だが、監督は「完全に他者に侵された自己」というものの原型を示してみたかったのだと思う。それが「トゥルーマン(真実の人間)」だというのは、強烈な皮肉である。
自分が記憶喪失になり、自分が誰であるかという記憶がなくなる。他者に「あなたはBという人間ですよ」と言われ続けると、自分はBという人間になる。記憶喪失にならずとも、身の回りの他者が全員「あなたはヒカキンですよ」と言い続けてくるとすると、発狂してしまうか、ヒカキンとして生きるか、自殺するしかなくなるだろう。逆に、「俺は天皇である」と僕が勝手に宣言したとしても、誰もそれを認めなかったら、僕は天皇ではない。
現代日本は人と人とのつながりがなくなっていると言われて久しいが、つまりそれは「あなたはこれこれこういう人ですよ」と言ってくれる人がほぼいなくなったということだ。昔なら村の住人の何十人か何百人かが自分のことを濃密に「こういう人ですよ」と認めてくれていたので「自己」が存在していたが、それはもうなくなった。自分の「根拠」が消えうせた。
だから、みんな必死で自分をどういう人かアピールしようとする。それは金持ちであったり詩人であったり歌手であったりボカロPであったりするかもしれないが、それは他人から「あなたはこういう人(詩人、金持ち、幸福な人)ですよ」と言われ続けないと、根拠のない「自己」が危うくなるからだ。
初めの話に戻ると、境界性人格障害の人は、親に愛されなかった人が多い。人生の初めの他者に「あなたはこういう人ですよ」という「自己」を貰えなかった。だから必死に自分をアピールしたり、恋人に認められるように死に物狂いになったり、根拠のない自分という悪夢から逃れるように依存症になったりする。精神病を考えることで人間の本質が分かるようになるというのはよく言われるが、境界性人格障害は、まさに現代に生まれるべくして生まれた病気だと思う。狂おしいほど他者からの承認を求める。そうしなければ「自分」が誰なのか分からないから。
僕は多かれ少なかれ今の若者はボーダー気味であると感じる。誰もかれもが他者に認められようと莫大な努力をする。俺はオタクだぞとグッズを買いあさる。俺は賢いんだぞと哲学の知識をひけらかす。けれどもその「確認」は「他者」という無常、危ういものに支えられているので、いつかは自己の無根拠さが露呈する。才能がなくなれば、飽きられれば詩人ではなくなるし、引退すれば社長ではなくなるし、家族が死ねば家族の一員ではなくなる。リタイアした後の仕事人間が早死にするのは自己がなくなるからである。
そうすると、この「無根拠な自己」というものを引き受ける覚悟で生きていくか、「完全なる他者」に支えられて「根拠のある自己」として生きていくか、どちらかをしないと不安は常に付きまとう。前者が聖道門であり、後者が浄土教である。
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