とりとめのない
欲望は、
海水を飲むことに似ています。
飲めば飲むだけ、
喉が渇くのです。———ダライ・ラマ14世
承認されたい、認められたいという思いが人並みにある。だからツイッターをやることもあるし、アマチュアの詩のWEB誌に投稿したこともあるんだが、どちらも気持ち悪くてやめてしまった。ツイッターをやることは承認欲求を満たすために安易な道だと思うし(かっこつけた「センスのいい」ツイートをしてればフォロワーも増えたしふぁぼも増えた)ネット同人誌なんかは本当に行き場のない承認欲求や自己顕示欲を満たすための格好の場所だと思うが、僕は「これはキリがないな 一生やり続けるんだろうか 洒落た文章を作るのも疲れたな」と思ってやめた。でも、今でもやりたいなと思うことはある。だって「気持ちがいい」から。麻薬と変わらない。ふぁぼられたら脳内物質が放出されて快感だが、それは幸福ではない。
欲望や渇愛が、苦しみの元だという仏教の主張は考えれば考えるほど正しいが、「気持ちのいい」ことが諦めきれない。誰かに認められたいという気持ちが湯水のごとくわいてくる。これを断ち切るのが「幸福」だとは分かっているが、気持ちのいいことをやりたくなる。
昨日哲学科に行ってる青年と喋ったんだが、その青年は「考える」ことが好きらしい。僕も人よりいろいろ考えているほうだと思うが、そんな僕が「思考」を観察していると、思考の本質が分かってくる。浮かんでは消えて、浮かんでは消える泡のようなものにすぎず、高尚なものでも何でもない。正体を観察してみると、本当にくだらないものだった。欲望や怒りは未だに「くだらない」と看破して捨てきることができないが、「思考」はくだらないと断言できる。僕はもう進んで「思考」することはない。パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、「人間は自分の部屋でじっとしていることができないから不幸だ」とも言った。なぜじっとしていられないかと言えば「考えてしまう」からである。ここが僕がパスカルと袂を分かつ点である。人間は考えないほうがいい、自分の部屋に孤独でいることが耐えられるから。
僕も知的好奇心に燃えている時期もあったが、それは酔いのようなものだったなと今では思う。何かを知るのが楽しくてしょうがなかったが、そんなのは酒と何も変わらない。何かを考えて文字にするのも口にするのも、ずうっと観察していると「なんだこんなものか」ということが分かってきて、萎えた。こういう風に気持ちのいいことを徐々に萎えさせていって、本当に幸福になりたい。
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