誠実な表現
「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。———フリードリヒ・ニーチェ
表現の偽瞞と、誠実さとの問題に関して、確かな認識を持ち、自己の思想を提出する方法について許容のない判断の眼をもつこと。
このことが僕をして何も言えなくすると共に、何でも言えるようにした。———原口統三
本を探すのがだるいので引用しないが、フェルディナンドペソア?みたいな人も「芸術家が真っ先にしなきゃいけないことは誠実さと向き合うこと」みたいなこと言ってたと思う。
僕はなぜか知らないが表現欲求が強く、1,2年前はアマチュアのWEB雑誌みたいなのに詩を頼まれたので書いていたことがある。最初は真面目に書いていたんだけれど、だんだんしょうもなく感じられてきて、最後は詩人は嘘つきだから嫌いみたいな詩を書いて、バックれた。他人様に自分の書いた言葉を見せつける下品な行為が自分で許せなかった。
昔から自分のことを「精神的な潔癖症がある」と言っているんだけれど、こういうタイプの人間は哲学者や文学者に案外多くいる。フランスのモラリストあたりは精神的潔癖症が多く、それに影響を受けている芥川龍之介とかも自分と同類の匂いがする。
これもフェルディナンドペソアが言ってたと思うが、「芸術家(詩人?)は無意識で何か凄い作品を作るみたいな幻想をそろそろやめよう」と言っていた。僕は自意識過剰気味だし才能がないので、何かを作るときに過度に「意識的」になりすぎるのかもしれないが、芸術家が天才的なひらめきによって、神に憑依されたごとく、何かを仕上げるというのは確かに嘘のような気がする。何かを「発表」する時点で、「鏡」に反射された作品のように思えてしまう。つまり、他者がどう見るかを気にしながら。他者の需要に答えるように、作品が作られているように見える。これが悪いと言っているのではなくて、ただ「卑しい」だけだ。僕はこれができない。2ちゃんねるなどでよく「みんな夜はセックスしてるくせによく澄ました顔で外歩けるよな」みたいな書き込みがあるが、そんな感覚。「他人に認められたい、褒められたい、お金が欲しい」というバカでかい自己顕示欲や金銭欲があるのに、澄ました顔でシュッとした作品を提出する。それが僕にはめちゃくちゃ気持ちが悪い。そして僕と同じように感じる人間もいるにはいるらしく、それがこうじて自殺してしまった青年もいる。僕らみたいな精神的な潔癖症からすれば、何も考えずに表現=排泄物を他人様の目に晒すのはある種の愚鈍さ、鈍感さが必要だと見えてしまうが、「普通の」人間からしたら僕らが異常なのだと思う。
そもそも人間は「表現」などなくても生きていられる。表現など人生の「贅肉」である。それを正当化するような論理は少数しか存在しえない気がする。「慈悲」か「狂気」ぐらいしかない。前者の典型がブッダや宮沢賢治であり、後者の典型はアウトサイダーアートである。
普通の人間が表現をする意図なんて「大勢に認められたい、モテたい」以外にあるわけがない。表現の意図と表現内容のギャップが、気色悪く感じてしまう。こういう歌だったら許せる。
あ〜認められたいな〜お金欲しいな〜みんなに褒められたいな〜
センスがあるって言われたいな〜 だって俺はセンスあるし〜
大勢にキャーキャー言われたいな〜 ファンの女食いてえな〜
音楽楽しいな〜 認められたいな〜 お金欲しいな〜
どんな表現もこれが通奏低音として響いているので、気持ちが悪い。
澤木興道というお坊さん曰く「宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである」ということなので、宗教だけはリアルだと思うが、その話は長くなりそうなので寝ます
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