人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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他宗教の人への気持ち

 20世紀最大の聖者だと言われているラーマクリシュナはこう言っている。
1宇宙の根本神は万能であるからして有形、無形のいずれの相をとっても存在できる。
2時代・地域・民族の違いに相応した形式と教えを通じ、神は自己をさまざまに顕現する。万神は唯一神の具現にして、万教は一真理の多彩な表現である。
3人は自らの信じる宗教を通じて神と一体になり得る。その時、自分の信じる神のみが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。信者が自分の宗教の正しさを信じるのはいいが、他の宗教についてはわからないというのが最も自然な態度であろう。
4自分の宗教を通じて神と合体する方法や道はいろいろある。しかし、方法や道は手段であり、目的や到達点である神そのもとと混同してはならない。
5どの宗教にも誤りや迷信があるかもしれないが、神や究極の実在を求める気持ちがあればよい。


 浄土真宗の原理から言えば、他宗教の人もできれば念仏の道に入ってほしい。自分がそれで救われているし、それが確実な道だと知っているから。けれども他人を折伏するのは傲慢な態度だ。僕は他人に浄土真宗を信仰しろ、だとか改宗しろだとか言ったことはない。このブログを読んでいる人が、勝手に念仏者になってくれればいいな、と思っている程度だ。

 他宗教の人は、他宗教が絶対だと思っている。浄土真宗の人も、浄土真宗が絶対だと思っている。僕がいつも頼りにしている先生に聞いてみると「クリスチャンの友人も、浄土真宗に改宗することがあるかもしれません。そうでなければ、六道輪廻した友人を、あなたが還相の菩薩になって済度すればいいじゃないですか」と言われた。浄土真宗を信じている立場から言えば、100点満点の答えなんだろう。でも僕は少し違和感を感じる。他宗教の人もこの命が終わった時に救われるべきだと思う。

 そこで、一つ思いついたのが、全てのほかの宗教は本地垂迹的なものだ、という考えである。神道の神は、仏教では仏の仮の姿だと言われているけれど、一神教の神も、阿弥陀仏が仮に化身したものだと考える。イエスキリストは菩薩だ。
 一見このような考えも良さそうだと思ったけれど、これを一神教の人に言うと不愉快に思われるだろう。一神教の神が全てを創ったのだから。

 結局、最初に引いた、「信者が自分の宗教の正しさを信じるのはいいが、他の宗教についてはわからないというのが最も自然な態度であろう。」というのが正解な気がする。キリスト教やイスラム教を外道と言って断罪するのは簡単だが、なぜか僕はそういうことはしたくない。僕は「わからない」に逃げたい。

 僕は念仏に救われて、阿弥陀仏は全ての宗教の人を愛している。それだけでいいと思った。
 
 

最近あった嬉しいこと

 理論的なことばかり書いてもブログっぽくないので、日常的なことを書く。
 500円玉でジュースを買おうとしたら、100円玉と50円玉が雑草の中に落ちた。自転車から降りて拾おうとすると、ぷーんと懐かしい土の匂いがした。祖母の家でジャガイモ掘りを手伝ったことや、小学生のころに畑を作ったことを思い出した。あ、僕、生きてる、と思った。ソクラテス以前の哲学者で、地水火風の中で、土を万物の原理にした人がいなかったのはなぜだろう。土は人間が帰る場所だからだろうか。
 雑草をかき分けてお金を探していると、ダンゴムシが出てきた。このときも、あ、生きてると思った。僕も生きていたし、ダンゴムシも生きていた。僕はノスタルジーに浸っている時に生を感じる癖があるらしい。最近、なんか生きている気がする。結局50円玉だけ見つからなかった。
 神社へ行って、お坊さんの説教を聞きながら、1時間歩いた。「南無阿弥陀仏は小さいものやおもたらあかん、天地いっぱい、南無阿弥陀仏やで」と耳から聞こえてきた。神社の奥に山がある。草木国土悉皆成仏。仏教では土にさえ仏になる性質があるという。足元を見れば、子供が木の棒か何かで書いたであろう落書きがあった。空には鳥がいた。昔より、感じる世界が広くなったように思う。意識が拡大した。
 阿弥陀仏の慈悲が、世界中の人にそそがれていると思うと、とても嬉しい気持ちになる。みんな慈悲の中を生きている。大きな大きな話だ。みんないずれ浄土へ行って幸せになる。
 最近あった嬉しいこと。みんなが愛されてると知ったこと。

狂気 シュルレアリスム 仏教 言語脱落

 最近芸術家の人と仲良くなったので、シュルレアリスムについて少し勉強をした。日本語にすると「超現実主義」というらしい。この「超」は超えるという意味ではなく、「強度の」という意味らしい。現実を超える主義だったら、宗教っぽくて好きだったのだが、そういうわけではないらしい。
 ここでは主にブルトンの自動筆記について書くけれど、自動筆記のスピードをあげていくと、徐々に「私」という主語がなくなり、「みんな」という主語に変わって行き、徐々にそれも消えて行って、単語の連なりのようになり、狂気に片足を突っ込むようになるらしい。僕は、これは、普段使っている日常言語が解体されて、「存在」を垣間見ることなのではないかと思った。
 サルトルの「嘔吐」の有名なシーンを思い出す。
 主人公が、マロニエの木を見ているとき、言語本質が脱落して、「怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊」が姿を現す。
 仏教の基本思想は「言語の向こう」へ行くことだと言えるが、仏教のような洗練された修行体系がないと、言語が解体されたとき、存在そのものという怪物に出会い、狂気に触れることになる。
 そういう意味で、自動筆記は言語の向こうを垣間見たのではないかな、と素人ながらに思った。それを作品にするのは、もう仏像を作るのと同じかもしれない。

 阿弥陀仏は、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。」というように、「言語の向こう」にいる存在である。言語の向こうの彼岸が、こちらへやってくる働きが南無阿弥陀仏という名号であり、他力である。柳宗悦は、教養がない民衆が、なぜこんなに芸術的価値の高い民芸品を作るのか、という問いに対して、浄土真宗の信仰があるからだ、と答えた。一文不知の尼入道に、「言語の向こう」からの他力が憑依する。鈴木大拙は森ひなという文盲の信者の詩を紹介しているが、最後に「われのちからでかいてない おやのちからでかきあげた」と記されている。

 自動筆記や、嘔吐の体験は、体系のない言語脱落の狂気に陥る。けれども、それが逆に、不安定で、面白みのある作品を作るのだと思う。仏教は言語脱落が、「安全」に行われるようになっているので、禅画を見ても、妙好人の歌を見ても、狂気は微塵も感じられない。
わたしゃしあわせ
なむあみだぶが 目に見えの
虚空を見るには虚空にだかれて
平ら一面 虚空の中よ—————浅原才市

母 真理

四十三、「真理を、女のようなものだと考えてはどうだろう?」というニーチェの誘い。僕は、真理を母のようなものだと考える。

 アフォリズムという記事に書いた、短い文章だ。真理というのは何なのか?というのは哲学的には未だに決着がついていない。対応説とか整合説とかごちゃごちゃあるけど、僕は哲学者じゃないので、そういうのは全部無視して、恣意的に真理=母だと定義する。
 真理=愛だとか、真理=慈悲だとかでは、何かしっくりこない。真理=優しさでもいいかもしれない。世界で一番優しい思想が、真理である。論理的整合性などは関係ない。優しさが真理の指標である。
 キリスト教は、愛する神であると同時に、裁く神だ。優しいけれど、少し怖い。悪いことをすると地獄へ行くかもしれない。哲学を見ると、プラトンの哲学は別に優しくない。カントの哲学を見ると、かなり厳しい。「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というのは論理的に導き出されるものなのかもしれないが、厳しすぎて、とうてい真理ではない。ニーチェの超人になれ!という思想も厳しい思想だ。クリシュナムルティの何物にも依存せずに気づき続けて生きろというのも厳しい。ストア哲学の徳を開発しろというのも厳しいし、ショーペンハウアーの全てをあきらめて生きろというのも厳しい。禅の、座禅や公案をたくさんして見性しろというのも大変だ。「厳しい」というのは誤謬の指標だ。
 
 僕の知る限り、世界で一番優しい思想は浄土教だ。「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、どんな悪人でも、無条件に愛されて、死後は浄土へ行くことができる。父親は厳しいから、誤謬だ。母親は甘やかしてくれるから、真理だ。世界で一番優しい思想が真理だとすれば、浄土真宗が真理である。真理は母親である。
 

弱さ 恋

 僕は本当に弱い。どういう弱さかと言うと、自分を振った女の足に泣きながらすがりついて命乞いをしているような弱さだ。一般的にこれを女々しさと言うんだろうけれど、僕のは女々しさという域を超えていると思う。心が常に泣いている。幼少期に親に甘えられなかったのと、八年間ほぼ誰とも触れ合っていないのが原因だと思うが、先天的なものもあると思う。常に飢えている餓鬼のような存在で、腹が満たされるまで餓鬼道をうろついている。

 沈黙、というのは一つの言葉で、沈黙、すらもない夢を二人で見たい。言葉というのは世界を隠すカーテンだけれど、好きな人と眼が合っているとき、同じ海を見ているとき、何気なく恋人繋ぎをするときに、沈黙すらもない、時が止まった時間を二人で共有する。恋愛は永遠性への憧れの挫折以外の何物でもないけれど、僕はそれをやめることができない。僕は大森靖子が好きだが、歌詞にこういうのがある。「あまり長くない永遠に依存する」
 恋愛は永遠への志向の挫折だ。僕はそれを知っている。挫折するために恋愛をするわけではないけれど、むしろ永遠を志向して恋愛をするけれど、僕たちは挫折する。痛いほど知っている。弱いからやめられないのだ。

 二人で、時間を止めたい。それでも時間は動き出す。恋愛はどこまでも挫折だ。時間は止まらない。言葉は繁殖する。永遠の誓いは破られる。それでも、あまり長くない永遠に依存するしかない僕がいる。僕は弱い。あまりにも寂しい。「君の寂しいところが好きだよ」と言った女は「君の弱さを全部許してくれる人なんかいないと思うよ」と言って去っていった。

 僕は、寂しい。本当に恋をした人と、言葉も沈黙もない、同じ風景を見ているとき。それが単なる感傷に過ぎないとしても、くだらないことだとしても、僕は、弱い人間だから。

生きている意味

 生きている意味が分からない…。そうこぼす人にたびたび会ってきた。何かに没頭して、そんな問いを忘れている人以外は、生きてる意味なんか分からないんじゃないだろうか。
 言語論の意味論で、個人的に一番しっくり来たのは「意味とはその記号がその記号より重要なものを指し示すことである」という定義である。僕たちを記号とすれば、僕より重要なものに僕が関わることが意味だと言える。自分より重要なものなどないと思うが、世間的に言えば、恋愛とか、仕事とか、趣味とか、そういうものを指し示すことが自分が生きている意味と言えるのかもしれない。
 僕は、この世で一番尊いことは、他者の苦を抜いて、楽を与えることだと思う。だから、それを娑婆世界で行っている人は、本当に意味のある人生を送っていて、羨ましい。僕にはそんな気力も体力も善性もないので、僕の人生は、意味がない。

 僕の人生は意味がない。重要なものを指し示すことがない。ニヒリズムだ。だからそのニヒリズムに、そっと寄り添ってくれるのが、阿弥陀仏なのだと味わっている。部屋に引きこもって生きている意味を見出せない僕を、それでもいいと慰めてくれる、虚無を抱擁してくれるのが、仏だ…。

 浄土へ行ったらそこで遊ぶわけではなく、こっちへ帰って来て他人の苦を抜いて楽になる手伝いをするらしい。菩薩へなったら僕にも生きる意味ができるかもしれない。

主体のない愛

 夜と霧という本で、アウシュヴィッツで強制労働をさせられていた著者が、もうすでに死んでいた妻の愛を希望に生き延びられるというシーンがある。実話である。妻はすでに死んでいたけれど、そのことを知らなかった著者にとってはその愛は大きな生きる糧になった。僕はそれを想像力という言葉で片付けたくない。
 真宗の本に、「世界は仁で溢れていて、その仁を身に着けた人を聖人という」と書かれてあったが、そうなのだと思う。世界は目に見えない仁(思いやり)で溢れている。愛の「主体」がいなくても、愛は人間に浸透する。
 主体のない愛がある。宇宙は、主体のない愛で満たされている。死んでいる妻の愛を感じたユダヤ人のように、僕たちは主体のない愛を感じることができる。世界に満ち満ちている、主体のない愛を感じることを「信仰」と言うのだと思う。
 透明な愛がある。眼に見えない愛がある。霊性の眼によってしか、感じられない愛がある。開眼すれば、誰でも愛を感じることができる。いつでも、どこでも、誰にでも、そそがれている愛がある。それに「気づく」。気づくだけでいい。人間の愛は限りがあるものだ。ならば、宇宙から愛されればいい。
 本当に大切なものは眼に見えない。
 

宗教 前後 独我論の突破

 「存在することは知覚されることである」という有名な残した哲学者がいる。僕はかなり好きな哲学者なんだけど、ジョージ・バークリーという。以前記事にしたので引用する。
 
バークリーの論旨は至って明解で、「知覚と存在は切り離せない」「精神と観念の外部には何もない」の2つに尽きる。

@知覚と存在は切り離せない。誰にも見られていないのに、存在しているもの(例えばあなたの家のトイレとか)を想像することができるだろうか?僕たちが想像している時点で、その事物は知覚されている。知覚と存在を頭の中で切り離すことができるだろうか?僕たちの「知覚」なしの存在は、考えられるだろうか?そんなものはない。思考実験してみてほしい。
 
A精神と観念の外部には何もない。花が見えるとしよう。その花は「自分にとって見えている花(観念)」である。その「自分にとって見えている花(観念)」の「外側」に、その観念の原因である「花に類似した物質」のようなものは考えられるだろうか?バークリーは否と言う。その花の観念の基盤になっているような物質を「考えよう」としても、それは「考えられたもの」なので、観念である。もしそれが知覚できないような存在ならば、知覚と存在は切り離せないのでそんなものは存在しない。観念の原因は、物質ではなくて精神である。

 「知覚しているものしか存在していると言えない」というテーゼは論駁するのが難しい。唯物論者が石を蹴って、「これでバークリーを論駁した!」と言ったという逸話があるが、その石もその唯物論者の観念でしかない。

 バークリーは「神」を措定して、神の知覚を人間の知覚の外へ置いたので、独我論を免れたが、もし神がいなければ独我論(ただ私だけが存在する)の体系になる。そして、ショーペンハウアーのいうように独我論者は論駁できず、無視することしかできない。
 僕たちは「自分の見えている世界=世界そのもの」「主観世界」からは抜け出ることができないのだろうか?
 「客観」など存在せず、全ては自分の夢のようなもの。これを哲学的に論破するのは難しい。

 昨日、人に「信仰をしている」と言ったら「私は宗教を作りたい側の人間だからなあ」と言われた。「作った宗教」は、人間の主観の中にある妄想に過ぎないので、夢から覚めるという効用はない。人間が作った宗教は、夢の延長に過ぎない。観念に過ぎない。人間「以後」の宗教は、妄想である。
 久遠の昔から存在する阿弥陀仏、哲学的に言えば真如、が独我論=夢の外から響いてくる。人間「以前」もっと具体的に言えば僕の生まれてくる前、生物の生まれる前からある「真理」が、僕の主観に食い込んでくる。禅の公案に「父母未生以前の本来の面目」というのがあるが、父親と母親「以前」の「真理」ということだろう。宗教はどこまでも「以前」である。

 人間以後の宗教は夢に過ぎない。僕の主観世界=夢、以前から聞こえてくる「南無阿弥陀仏」が、僕の夢を覚めさせる。
 細川巌師が、阿弥陀の熱で、卵の殻が暖められて、自我が破られてひよこが生まれてくると、よくたとえていたが、味わい深い例えである。

 
 

信仰は必要か?

 僕は信仰者だから、信仰者の立場から言えば信仰は必要である。迷いの六道輪廻から抜け出るためには阿弥陀仏の勅命に信順しなければならない。全ての人が阿弥陀仏を信じて浄土へ行けばいいと思っている。最終的には迷いつつもみんな浄土へ行くのだろうけれど。

 信仰者の立場をいったん棚に上げて、一般論を考えてみる。知識人は宗教の効用を精神の豊かさとかそういう風に語る人が多いが、僕は信仰の一番のかなめは「人生に決着がつく」というところだと思う。「死ねる」ところであると思う。僕の師匠の師匠の念仏詩人に木村無相という人がいる。その人の詩にこういうのがある。「今今今たった今死んでも生き甲斐あったか」という詩がある。僕はまだ死にたくない。まだこの世で楽しいことをしたいという欲求はあるけれど、「原理的には」死ねる。生死の根本問題に決着がついているのだから、心情的には嫌だが、死んでも悔いはない。日本の土着信仰には「未練」を残して死んだ人間が幽霊になり、その人間に「成仏してくれ」と願う、という信仰があるがその意味では、僕は成仏できる。
 僕の母親は、成仏できなかったかもしれない。生まれてくる孫に服を買ってあげたいだとか、あと10年は生きたいだとか言っていた。未練があった。未練を残さず死ねる人って、いるだろうか?
 100歳ぐらいになり、もう病気で寝たきりで、ひ孫の顔も見て、「もういい」と思える人もいるかもしれない。でもそんな幸福な人は一握りじゃないか。僕の祖母は70を超えているが、新しい会社を立ち上げようとしている。人間の欲望には切りがないと思う。けれど、生に執着のない人も知っているので、そういう人には信仰は必要ないのかもしれない。
 今死んでもいいか、今癌を宣告されてもいいか、今死刑囚になってもいいか。
 「死にたい」と言っている人も、本当は娑婆で楽しく幸せに暮らしたいのではないのか

 仏法は生死の問題の解決である。信心を得るということは、生死の問題が解決したということだ。現代の若い人は、生死の問題なんて全く興味がなく、刹那主義、快楽主義、付和雷同に生きている人が多数だと思う。それで「死ねる」なら全く問題はないと思う。僕は若い人に向かって、禅の老師が公案を出すように、こう叫びたいような思いがある。「お前、死ねるか」死ねないなら信仰が必要だと思う。
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき—————親鸞

扉は開いている 安心 自殺

部屋が煙たくても少しならばそこにいられるが、もっと煙が多くなれば、私は部屋から出ていく。ドアはいつも開いているのだから——————エピクテトス

 清沢満之は、自分の三部経は阿含経とエピクテトスの語録と歎異抄だと言った。精神主義は少し自力臭くて僕は苦手なんだけれど、エピクテトスの好きな言葉と歎異抄を考えてみる。
 「ドアはいつも開いているのだから」これは比喩で、煙(苦しみ)が増えるのならば、ドアから出る(自殺する)という意味である。ストア哲学は自殺を消極的にだが勧めている、稀有な哲学である。
 いつでも死ねることができる。それは確かに魂の安寧にとって健康的な考えかもしれない。ニーチェもこう言っている。「自殺を思うことは、優れた慰めの手段である。これによって人は、数々の辛い夜をどうにか堪え凌ぐことができる。」
 キリスト教などでは禁止されているが、実は浄土真宗でも自殺は禁止されていない。親鸞聖人も病苦で自殺したお同行の往生を喜んでいる手紙を残しているらしい。
 
 「ドアはいつも開いている」というエピクテトスの洞察と、そのドアの向こうに浄土の光が見えるという浄土教の救い。ドアはいつも開いているからこそ、そこから光が差し込んで、生きる勇気が与えられる。ニーチェが言っているように、自殺を思うのは慰めだ。つらいときは、ちらちら、開いているドアを見る。そこからはいつも浄土の光が差し込んでいる。自殺を思うからこそ生きていける。僕は、自殺するのには反対だが、いつもドアは開いているということ、ドアの向こうは浄土であることを念頭に置けば、そこには安心があるんではないかと思う。

 
 
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