人生入門

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丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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返報性の法則 自力

 返報性の法則というものがある。確かドーキンスの利己的な遺伝子にも載っていたが、いいことをしてくれた仲間にはいいことをして、悪いことをされた相手には悪いことをするという原理が、自然界の自然淘汰で生き延びてきた戦術らしい。
 もちろん人間にもこの法則は当てはまる。試食コーナーで食べさせてから、相手に恩を売って商品を買わせる、最初に聖書を無料で配布して、集会に来させる、お中元を贈りあう。年賀状を貰ったら、返さないとなんか気持ち悪いだろう。それを返報性の法則という。

 浄土真宗は、他者からの絶対の贈与がある。それしかない。「永遠の命」というこの世で一番重要なものを「無料」で貰う。これは「気持ち悪い」。これが自力なのだと思う。
 今日はキリスト教の本を読んだのだけれど、キリスト教では神は恐ろしくて、そこまで「人間に都合よく」ない。だから、難信ではないのだと思う。人間にも何か「お返し」する余地がある。イスラム教の律法などもそうだろう。「これをしてるから助けてください」という返報性が成り立っている。

 浄土真宗は「善をしたら救う」でもない。「念仏したら救う」でもない。「そのまま」救う。キルケゴールの死に至る病に、キリストを信じるのは貧乏人が王様から娘を貰うようなものだ、と書いてあったが、それより「一方的な贈与」だと思う。だから受け取れない。計らってしまう。

 「そのまま救う」を最初から受けとれる人なんていないのだろう。それはあまりにも「重すぎる」。永遠の命をタダで貰う。けれど、それは心理学的、生物学的に、いやいやそれは…、となってしまう。この計らいを聴聞でとってもらう。というか、信じるのが不可能だから、信心すらも阿弥陀仏から頂く。そうすれば、永遠の命を貰った上で、報謝の念仏ができるようになる。

思考停止

 信仰をしていると、「それって思考停止なんじゃないの?」と言われることがある。多分そう言っている人は、こういう信念を持っているのだと思う。「現代人は知性に誇りを持つべきであり、己の知性により、真理を開拓していくべきだ」
 現代人は基本的に自分の知性に誇りを持っている。多分科学が成功したからだろう。こういう時代にこそソクラテスが必要であると思う。現代日本にソクラテスがいれば、「幸福とは何か」「勇気とは何か」「死とは何か」「正義とは何か」という議論を人に吹っかけまくるだろう。そして、人は自分が何も知らないことを知るのだ。
 そもそも思考している人がいるんだろうか。悩みと思考は違う。思考というのを大げさにしたのが「哲学」だと思うけれど、僕は、哲学というのは「ロゴス(言葉、論理)」で世界を探求したいという、西洋人のローカルな性癖に過ぎないと思う。それに乗っかる必要はない。現に東洋では体験知で世界を探求する方法がとられていた。

 思考停止、というが、思考して何か分かるんだろうか。僕は何もわからなかった。何も分からない不可知論の立場は、僕にとって不安すぎた。「何も分からないなら、こっちにそのまま救う店があるから来ないか」と誘われたので、絶対者に、ひ弱な自分を任せることに決めただけだ。

 思考を停止せずに、突っ走って、「生きる意味」だとか「結局死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えを出せるなら、答えを教えて欲しい。教えてくれるなら、今すぐ買った仏書を焼き捨てて、教えてくれた人に帰依する。

 思考というのは結局「何も分からない」と知っていく作業に過ぎないと思う。何も分からない人が、何かを考えて、また何も分からないに帰るだけだ。愚→自惚れ→愚という作業が行われているだけだ。そして思考が完全に行き詰ったところ、その《愚》を完全に自覚することで、人は絶対者にまみえることができる。

 確かに思考停止している。けれども虚無の崖をぴょんと超えている。そういう意味で意味のない思考をぐるぐるしている人より「一歩先」にいると思う。
 

表面じゃ足りないもっと肉の奥の奥の奥の命の命 #tanka

 最近ベルクソンを読んでいる。まだ読み込んでいないのだけれど、ニーチェと一括りに「生の哲学」と言われている理由は分かったように思う。ベルクソンは「知性」を、近代の哲学者とは違って、独立したものだと認めていない。ニーチェもそうだ。ニーチェは「真理とは生きるために必要な誤謬」とまで言い切っている。まず「生きている」という根本事実があり、そこから哲学や科学などの知性が派生してくる。
 僕らはみんな生きている。哲学は神学の端女という言葉があるが、それをもじって哲学や科学は「命の端女」と言えると思う。哲学や科学は、命に従属しているもので、命が王様である。だから、この「命」を生け捕りにしなければならない。知性や科学で「生きている」という事実を解明することはできない。それらよりも「生きていること」が先にあるのだから。
 
「思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。————沢木興道」

 命の奴隷でしかない知性では、「本当」を掴むことはできない。無量寿を生きていたと気づくこと。無量寿の中に、生きていたと気づくこと。それが「本当」だと思う。

ニヒリズム 愚

 僕は、古代ギリシャと鎌倉時代と現代日本の精神状況は似ていると思う。虚無主義が蔓延している。何が正解か分からない。生きる意味が分からない。

 古代ギリシャの場合、タレスが万物の原理は水だという説を提示した。これは神殺しに匹敵するだろう。古代ギリシャの場合、オリュンポスの神々はかろうじて生きていたが、それもソフィストに殺された。ソクラテスも、死後の世界はあるのかないのか分からないと言っている。
 ソクラテスは無知の知を説いた。そして称揚として死んでいった。死後、魂が残るのなら、自分は善しか行っていないので、安心だ。死後が無ならば、それは夢を見ない眠りのようなもので、絶対的な幸福だ。これはソクラテスについているダイモーンが言わせている。「他者」が言わせている。僕はこんな言葉が人間に吐けるとは思えない。ソクラテスは一種の悟りを持っていたと思うが、それはダイモーンが異界から囁いていたからだ。そしてソクラテスにダイモーンがついてたのは、彼が無知の知を持っていたからだと思う。

 日本の鎌倉時代に目を転じてみると、やはり時代は腐敗している。方丈記を読むと分かるが、飢餓や天災などで多くの人が亡くなり、仏教も腐敗していて、どうしようもない状態になっていた。ここでもキーワードは「愚」になってくると思う。ダイモーンは愚に憑依する。というか、己をたのんでいるものは、他者を受け入れない。あの学識豊かな法然が愚痴の法然房と名乗ったのも、親鸞が愚禿親鸞と名乗ったのも、ニヒリズムの時代で、本当に何も分からなかったからだろう。「何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何にも分らないとなったところで、一切の事を挙げて、ことごとくこれを如来に信頼する、と云うことになったのが、私の信念の大要点であります。」これは清沢満之の言葉だけれど、何も分からない、とお手上げになったとき、その空っぽの真空に、《他者》は入り満ちるのだと思う。

 そして現代。海図なき航海の時代とか言われている。みんな生きている意味が分からないだろう。オリュンポスの神々がまだ少し生きていたり、迷信的なものが残っていた鎌倉時代よりも、ニヒリズムは先鋭化していると思う。無知の知、《愚》を先鋭化する。僕には何も分からない。お手上げだ。そして上げた手で、合掌をする。人間には何も分からない。ただ愚の真空に入ってくる他者を待つのみだ。

僕が救われるべき理由

 友達に「救いとか考えてたら分かんなくなるから考えないようにしてる」と言われたことがある。今日は「神様は弱い人のためのもの」と言われた。救いという言葉に、全く縁がなく死んでいく人もいるだろう。人間は、救われるべき存在なのだろうか?それとも人間には救いなど必要ないのだろうか?
 「人間は全員救われるべき」などと大仰なことを言うと、傲慢だと思われそうなので、「僕が救われるべき理由」を考えてみよう。

@死ぬから
 僕が救われるべき存在な理由の筆頭がこれだ。僕は死ぬ。僕は死ぬのが嫌だ。死ぬのが怖い。死にたくない。永遠に生きたい。僕は死にたくない。死にたくない。もし死後が無なら、絶望しかない。死後が無なら、生まれないほうがマシだ。僕は死ぬから、絶対者に、死なない存在にしてもらわなければならない。

A生きるのは苦だから
 7、8回手術をして、うつ病になって、自閉症が発覚して、母親が死んで、この理不尽な世界が真実の世界というのはどう考えてもおかしい。こっちが偽物で、あっちが本物だ。極楽という、苦のない場所へ行きたい。

B裏切らない愛が欲しいから
 人間は裏切る。ペットが死んだ少年がこう呟いたらしい。「やっぱり死というのは一つの裏切りですよ」僕はそういう意味では母親に裏切られた。そして、親という絶対無条件に裏切らない存在も死ぬ以上、本当に心から信頼できる相手というのは絶対者でしかありえない。全ての存在が無条件に愛されていると思うと、生きる元気がわいてくるし、世界を見る目も変わってくる。「安心」できる。

C悪い人間だと思うから
 僕は自分のことを悪い人間だと思っていない。それが一番の悪だと思う。地獄行きだ。

 僕は救われるべき人間だと思う。死ぬから。寂しいから。引きこもり生活の中で死ということを瞑想し続けたことと、孤独を煮詰めた結果、救われるべき人間になったのかもしれない。
 ほかの人が救われるべき人間なのかは知らない。自分だけを信じて、悔いのない強い人生を送れる人もいるのかもしれない。そういう人はそういう人生を送ればいいと思う。死ぬけどね。

境界性人格障害

 精神病っていうのは、人間の本質が現れていると解釈することもできる。全く荒唐無稽なツイートだけれど、「うつ病の人が見ている世界が真実で、健常者が見ている世界のほうが狂っているという説がある」というツイートがバズっていた。なんとでもいえる面白い説だけれど、そう考えても確かに創造性はある。うつ病というのは「倦怠」「虚無感」「無気力感」「絶望」などが主な症状だと思うけれど、中島義道やシオラン、パスカルなどは、うつ病を通して世界の本質を表現していたように思う。

 僕は多分境界性人格障害なのだが、不安定な自己像、慢性的な虚無感、強烈な依存欲求、などの症状がある。僕は境界性人格障害というのは現代人のドロドロした本質をグツグツ煮込んだ病気であると思う。
 不安定な自己像———————何者かになりたいという焦燥
 慢性的な虚無感———————もはや自覚されていないニヒリズム
 強烈な依存欲求———————ニヒリズムから帰結する「気晴らし」への執着

 僕は自分が誰なのか分からないし、虚無感はほぼ常にあるし、他者へ依存していないと生きていけない。でもみんな多かれ少なかれそうなのだと思う。大昔に読んだ「露出せよ、と現代文明は言う」とかいう精神分析の本では、昔みたいな典型的な分裂病は数が減って、こういう表面的な病気が増えたと書いてあった。僕も、自己や世界の表面をなぞるように生きている気がする。なにもわからず、空虚で、だから依存する。表面的だ。特に自己が。
 超越的なものへの異常な憧憬も、この薄っぺらさから逃走するためのものだったのかもしれない。確かに超越的なものが世界へ導入されてからは、世界が「生きている」と感じることが増えた。東京の人はみんな顔が死んでいた。

 生きている感覚がない。死ぬときも、死ぬ感覚がないんだろうか。表面的に生きている。生に垂直の次元を取り戻すために、信仰を深めたい。

 

死にたい

 希死念慮、というのは恐らく高級な感情なのだと思う。贅沢品といってもいい。知性のない動物にはない感情で、過去と未来を認識することができる人間だけが希死念慮を持つことができる。
 生き物というのは、読んで字のごとく生きるという盲目的な意志を持っているが、それを否定する希死念慮というのは遺伝子至上主義に対する個体的人間の勝利であると考える。
 
 人生山あり谷ありという言葉が嫌いだ。谷のうちに、死んでしまえば、山も谷もなくなってしまい、平和な平原が広がってるんじゃないか。山というのは酔いであるし、谷というのは運である。そんなものに振り回されるのは阿保らしい。死というのはフラットなもので、おそらく、谷よりは上にあり、山よりは下にあるものだ。

 親鸞が「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言ったように、自殺というのは恐らく個体を超えている。個人の意志を超えている。だから未遂ということがたびたび起こるのだろう。自殺する人はするし、しない人はしない。個体を超えた生命が、死を選ぶのだと思う。

 死にたい。

念仏しよう

「諸君にしてもし心中の苦悶を脱し、この障礙多き世に処して大勇猛を得て生死の境に安住したいと思い給わば、どうぞ私とともにこの如来の実在を信じてください。そうすれば助かるにまちがいありません。現に私がこれによって救われつつあるのである。諸君もどうか助けらるると信じて、助けらるるようになってください。たといこれが間違っていようがままよ、わたしといっしょにまちがいに入ってください。否親鸞聖人といっしょにまちがいにはいろうではありませんか」
 みんなで一緒に間違おう。間違っても真理は真理だ。阿弥陀仏は現にまします。

 信仰が嫌いな人を、説得しようと思う。まず、この念仏宗の哲学から語ろう。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。

 法身というのは、真理そのものという意味だ。真理そのものとは何か?それは大乗起信論によると、妄念や煩悩がなくなった時に見える「真如」だ。凡夫の認識を超えていて、修行した菩薩だけが見える「究極のリアリティ」である。具体的な逸話をあげる。
 白隠禅師だったと思うが、このような話を聞いたことがある。白隠は、小さい頃から死ぬのがしょうがなくて、禅門に入ったが、中国の逸話集を読んでいるときに、悟った禅僧が、首ちょんぱされて殺されたという逸話を読んだらしい。それを読んで「結局悟っても死ぬじゃないか」と思った。けれども悟りを得て、開口一番、「あの禅僧は死んでいなかった!」と叫んだらしい。これは僕の解釈だけれど、首を切られた禅僧は、「夢の中」ではなく「リアリティ」の中に生きていたのではないか。
 仏教では究極のリアリティは無分別智と言われる。真如とも言われる。最近ツイッターで見たのだが、現代でも禅の修行をしている人が「私が死んでも《覚》は死なない」と言っていた。超個人的なリアリティが、その人を掴んでいるんだろう。
 法身というのは、体験できるものだ。修行すれば、「見る」ことができる。この法身が慈悲より現れたのが方便法身で、その法身が法蔵菩薩と名乗って、僕らの代わりに仏道修行をしてくれた。この話は、歴史的事実であると受け取っても構わないし、法身→凡夫への慈悲を現す方便の宗教的真理だと受け取っても構わない。修行ができず、法身を見ることのできない凡夫のために、法身のほうからやってくる。法蔵菩薩は信じて念仏をするものを必ず浄土へ迎えとるという願を立てて、阿弥陀仏という仏となった。
 
 「南無阿弥陀仏」というのはこの法身からの呼び声であり、これに信順することで、死後も輪廻することがなく、真理そのもの(極楽浄土)へ行くことができる。
 
 禅僧が、こちらから法身に向かうのに対して、真宗ではあちらから向かってくる。方向が違うだけだ。

 別の方向の話も話そう。
 鈴木大拙は、知性と感性の奥に、「霊性」があると言った。キルケゴールも似たようなことを言っていて、心と体を結び付けるのが「精神」だと言っている。西田幾多郎は、霊性は主観的事実であると言っている。「霊性」というと怪しく感じるだろうか?霊というのは幽霊のことではなく、人間の、根源的な郷愁のようだと思う。僕の実体験として、霊性が餓えている時は、なにかもの寂しい感じが絶えなかった。霊性の水を飲むと、今まで体験したことのないような平安を感じるようになった。イエスが「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」と言っている通りだ。人間には霊性の渇きがある。本当の命になりたいという願いがある。それは信仰でしか解決できない。

・信仰してよかったこと
 
 焦りがなくなった 余生を過ごしているような気分
 孤独感が減った 阿弥陀仏が横にいる 口から阿弥陀仏が出てくる
 死の問題が解決した 死ねば極楽浄土へ行ける
 理由のない喜びが溢れてくる 命の水を飲んでいる
 お金がかからない 僕は書籍代ぐらいしか払ってない

 人間は、有史以前から、ずっと神を信仰してきた。リチャード・ドーキンスは、神を信仰する本能を、恋愛をする神経の副産物でないかと言っていた。仏教では全ての衆生に「仏性」と言って仏になる性質を認めるが、おそらく脳の中にその根拠があるんだろう。脳みそは信仰する回路を持っているから、誰でも信仰することはできる。生きている意味が分からないと嘆いている人をたくさん見るし、人生がつらそうな人もたくさん見る。仏法は生死の解決である。
 僕の好きな禅僧の言葉「仏教というものは「ああ人間に生まれてきてよかった」ということを教えるものである。」
 南無阿弥陀仏の六字は、生死の問題を一刀両断する。

 たといこれが間違っていようがままよ、わたしといっしょにまちがいに入ってください。否親鸞聖人といっしょにまちがいにはいろうではありませんか。
 
 信仰は、扉は狭いが、中は広い。まずは騙されたと思って、一口饅頭を食べてみませんか。お酒を飲んでみませんか。饅頭を食べれば甘いし、酒を飲むと酔う。まず一度、騙されてみてください。

 
  

生きてるだけで偉い 360度

 「そのままの君でいいんだよ」系の言説で溢れている。「生きてるだけで偉い」という言葉がネットで流行っている。けれどもそれをいちいち「言葉」にしないといけないということは、みんな生きてるだけで偉いとは思えていないということだ。自分に、他人に、言い聞かせているような気がしてならない。

 唐突だが、唐代の禅の話をする。馬祖という偉い禅僧がいたんだけれど、その禅僧は「即心是仏」とか「平常心是道」とか説いた。その身そのままが仏であって、悟りなど開く必要はない。ただ「無事」であればいい。これは精神力の強い人ならばそう思い込めたかもしれないが、やはり「体験」がないとそうは思えないと思う。平安時代にはやった本覚思想(本来みな仏なのだから何をしてもいい)という堕落も招く思想だと感じる。
 この馬祖を批判したのが石頭という人で、この人は見性の重要性を説いた。石頭も「あるがまま」が悟りの境地だということは認めるが、無明(0度)→見性(180度)→平常心(360度)というあるがままが悟りだと説いた。一度、全てが無分別=完璧だということを悟り、それから日常に帰ってくる。これで本当に「生きてるだけで偉い」が完成する。

 今度は日本の鎌倉浄土教を見る。一遍上人は「信不信を論ぜず」と言って、阿弥陀仏を信じなくても浄土へ往生できると説いた。これは馬祖の禅に比較できると思う。けれどもそれは、観念的なものにとどまらないだろうか?現に信じてない人が、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、生きてるだけで偉いと思えるだろうか。先ほどの比喩で言えば、ずっと0度の場所にいる。0度の場所からいくら生きてるだけで偉いと言っても、言い聞かせることにしかならないと思う。
 親鸞の浄土真宗はどうか。これは「信の一念」を大事にする。これは先ほどの比喩で言うと、180度に当たる部分だと思う。信心を得ることで、阿弥陀仏が自分を離れておらず、全肯定していることを知り、360度に回帰する。

 偉い仏教者の曽我量深という学者は、晩年、しきりに「平常心是道」と言っていたらしいが、それは一遍的(そして現代日本のメンタルヘルス的)な観念の「生きてるだけで偉い」ではなくて、180度を通った360度だったと思う。

現実 夢

 ツイッターで、人は死ぬと無になると言っている人がいたので なんで? と聞くと「現実的に」と返された。現実ってなんだろう。
 一期は夢よ ただ狂えという有名な狂歌にもあるように、日本には伝統的に「これ」を「夢」だと考える思想がある。いろは歌もそうだ。浅き夢見じ 酔ひもせず。
 これはおそらく仏教の影響だと思われる。ブッダというのは「覚めた人」と言う意味で、夢から覚めた人間のことである。だから、ブッダ以外は夢を見ている。
 白隠禅師だったと思うが、このような話を聞いたことがある。白隠は、小さい頃から死ぬのがしょうがなくて、禅門に入ったが、中国の逸話集を読んでいるときに、悟った禅僧が、首ちょんぱされて殺されたという逸話を読んだらしい。それを読んで「結局悟っても死ぬじゃないか」と思った。けれども悟りを得て、開口一番、「あの禅僧は死んでいなかった!」と叫んだらしい。これは僕の解釈だけれど、首を切られた禅僧は、「夢の中」ではなく「リアリティ」の中に生きていたのではないか。
 仏教では究極のリアリティは無分別智と言われる。真如とも言われる。最近ツイッターで見たのだが、現代でも禅の修行をしている人が「私が死んでも《覚》は死なない」と言っていた。超個人的なリアリティが、その人を掴んでいるんだろう。
 
 僕たちは夢を見ていて、夢の中では死んでしまう。けれども覚めたら死なない。しかし、覚めるにはなぜか修行が必要になっている。これではみんな死んでしまう。

 幼子が寝ている。幼子は悪夢を見ているが、自分の力では目を覚ますことができない。外から、母親に呼んでもらう必要がある。母親に「〇〇ちゃん、起きて」と声をかけられれば起きる。そして現実を見る。南無阿弥陀仏とは、この母親の呼び声なのであった。
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