自殺
(自分のことも含め)自殺が身近にありすぎるので、自殺について考えざるを得ない。カミュの言うように「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。」
キリスト教では自殺は禁止されている。詳しい理由は知らないんだけれど、恐らく人間が神の奴隷だからだと思う。奴隷に自殺する権利はない。この場合「命」を所有しているのは「神」ということになる。「この命」の所有者は「個人」ではない。「個人」が「命」を所有しているのならば、その「命」をどうしようと自由だが(いらなくなったゴミを捨てるように)「命」の所有権が神にあるのならば、自分で「命」を捨てることは許されない。
曹洞宗の開祖の道元は、「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」と言っている。心身脱落した彼の眼には、この人生は個人の「持ち物」でなく、仏=世界そのものだと思えたのだと思う。この場合にも命の所有権は「個人」にはない。
浄土真宗では全ての「命」は阿弥陀仏だと言われる。阿弥陀仏とは「はかりない命の仏」という意味で、全ての「命」の中にいる、というか「命」そのものだ。僕の「命」は阿弥陀仏だ。僕は自分の「命」を所有していない。阿弥陀仏が僕という「場」で生きているだけだ。
科学的に言ってもそうだ。僕の肉体は、全て他の「命」を犠牲にして出来ている。太陽の光によって「命」が成り立っている。重力によって「命」が成り立っている。空気によって「命」が成り立っている。太陽がなくなれば僕は死ぬ。その意味で、ティクナットハンという禅僧は「太陽は私の心臓」と言っていた。「命」の境界線は、脆く薄い。
「個人」が「命」を思いのままにして良いという思想から、「自殺するのも自由」という倫理も生まれる。私の「命」は神の持ち物だった、私の「命」は仏そのものだった、という思想からは自殺という選択肢は生まれにくいんではないだろうか。
キリスト教では自殺は禁止されている。詳しい理由は知らないんだけれど、恐らく人間が神の奴隷だからだと思う。奴隷に自殺する権利はない。この場合「命」を所有しているのは「神」ということになる。「この命」の所有者は「個人」ではない。「個人」が「命」を所有しているのならば、その「命」をどうしようと自由だが(いらなくなったゴミを捨てるように)「命」の所有権が神にあるのならば、自分で「命」を捨てることは許されない。
曹洞宗の開祖の道元は、「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」と言っている。心身脱落した彼の眼には、この人生は個人の「持ち物」でなく、仏=世界そのものだと思えたのだと思う。この場合にも命の所有権は「個人」にはない。
浄土真宗では全ての「命」は阿弥陀仏だと言われる。阿弥陀仏とは「はかりない命の仏」という意味で、全ての「命」の中にいる、というか「命」そのものだ。僕の「命」は阿弥陀仏だ。僕は自分の「命」を所有していない。阿弥陀仏が僕という「場」で生きているだけだ。
科学的に言ってもそうだ。僕の肉体は、全て他の「命」を犠牲にして出来ている。太陽の光によって「命」が成り立っている。重力によって「命」が成り立っている。空気によって「命」が成り立っている。太陽がなくなれば僕は死ぬ。その意味で、ティクナットハンという禅僧は「太陽は私の心臓」と言っていた。「命」の境界線は、脆く薄い。
「個人」が「命」を思いのままにして良いという思想から、「自殺するのも自由」という倫理も生まれる。私の「命」は神の持ち物だった、私の「命」は仏そのものだった、という思想からは自殺という選択肢は生まれにくいんではないだろうか。