芋洗い
滝沢克己というキリスト教神学者がいる。その宗教哲学者が、中学生の頃の話。夏の暑い日に、学校から帰っていると、知らないおじいさんが、水車で芋を洗っていた。このとき滝沢少年は「この人は一体何をしているんだろう」と思ったらしい。結局のところ何をしているのか?
こういう経験、ないだろうか。僕は数えきれないほどあると思うけれど、思い出せるのは、雨の日に病院へ行ったとき、談笑している高校生を見て「この人たちは何をしているんだろう」と思った。
ガラス張りの向こうで、人が何か喋っている。こちらには何も聞こえない。「この人は何をしているんだろう?」
いうまでもないが、この問いは自分に返ってくる。それも一挙一動に返ってくる。俺はなぜ哲学書を読んでいるんだろう?俺はなぜユーチューブで動画を見ているんだろう?でも僕の場合、日常で意識されることはなくて、「これは一体なんなんだろう」というのは天啓のように降ってくる。これが他人に降ってくるものなのかどうかは知らないけれど、他人はこの天啓をスルーして生きている。僕は悪魔に取りつかれてしまった。「このおじいさんは、なぜ芋を洗っているんだろう?」
この人は何をしているんだろう?これはなんなんだろう?僕は?
おじいさんは、なぜ芋を洗っているのか?結局のところなんなのか?イスラム教によると、全てはアッラーの意志らしい。ただ一度のまばたきも、アッラーの意志らしい。これが物事を究極にまで瞑想する、ということだと思う。おじいさんが芋を洗っていたのはアッラーの意志だ。
道元禅のこの立場も究極まで瞑想してると思う。「「坐禅して何になるか」 この「何になるか」という問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何になったか?おまえが生まれて何になった? 何になるものは一つもない。」
この人は結局のところ何をしているんだろう、という天啓を大事にしてほしい(したい)。それは真理に繋がる問いだと思うから。
こういう経験、ないだろうか。僕は数えきれないほどあると思うけれど、思い出せるのは、雨の日に病院へ行ったとき、談笑している高校生を見て「この人たちは何をしているんだろう」と思った。
ガラス張りの向こうで、人が何か喋っている。こちらには何も聞こえない。「この人は何をしているんだろう?」
いうまでもないが、この問いは自分に返ってくる。それも一挙一動に返ってくる。俺はなぜ哲学書を読んでいるんだろう?俺はなぜユーチューブで動画を見ているんだろう?でも僕の場合、日常で意識されることはなくて、「これは一体なんなんだろう」というのは天啓のように降ってくる。これが他人に降ってくるものなのかどうかは知らないけれど、他人はこの天啓をスルーして生きている。僕は悪魔に取りつかれてしまった。「このおじいさんは、なぜ芋を洗っているんだろう?」
この人は何をしているんだろう?これはなんなんだろう?僕は?
おじいさんは、なぜ芋を洗っているのか?結局のところなんなのか?イスラム教によると、全てはアッラーの意志らしい。ただ一度のまばたきも、アッラーの意志らしい。これが物事を究極にまで瞑想する、ということだと思う。おじいさんが芋を洗っていたのはアッラーの意志だ。
道元禅のこの立場も究極まで瞑想してると思う。「「坐禅して何になるか」 この「何になるか」という問いが第一、中途半端じゃ。テレビが発明されて何になったか?おまえが生まれて何になった? 何になるものは一つもない。」
この人は結局のところ何をしているんだろう、という天啓を大事にしてほしい(したい)。それは真理に繋がる問いだと思うから。
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