思考停止
信仰をしていると、「それって思考停止なんじゃないの?」と言われることがある。多分そう言っている人は、こういう信念を持っているのだと思う。「現代人は知性に誇りを持つべきであり、己の知性により、真理を開拓していくべきだ」
現代人は基本的に自分の知性に誇りを持っている。多分科学が成功したからだろう。こういう時代にこそソクラテスが必要であると思う。現代日本にソクラテスがいれば、「幸福とは何か」「勇気とは何か」「死とは何か」「正義とは何か」という議論を人に吹っかけまくるだろう。そして、人は自分が何も知らないことを知るのだ。
そもそも思考している人がいるんだろうか。悩みと思考は違う。思考というのを大げさにしたのが「哲学」だと思うけれど、僕は、哲学というのは「ロゴス(言葉、論理)」で世界を探求したいという、西洋人のローカルな性癖に過ぎないと思う。それに乗っかる必要はない。現に東洋では体験知で世界を探求する方法がとられていた。
思考停止、というが、思考して何か分かるんだろうか。僕は何もわからなかった。何も分からない不可知論の立場は、僕にとって不安すぎた。「何も分からないなら、こっちにそのまま救う店があるから来ないか」と誘われたので、絶対者に、ひ弱な自分を任せることに決めただけだ。
思考を停止せずに、突っ走って、「生きる意味」だとか「結局死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えを出せるなら、答えを教えて欲しい。教えてくれるなら、今すぐ買った仏書を焼き捨てて、教えてくれた人に帰依する。
思考というのは結局「何も分からない」と知っていく作業に過ぎないと思う。何も分からない人が、何かを考えて、また何も分からないに帰るだけだ。愚→自惚れ→愚という作業が行われているだけだ。そして思考が完全に行き詰ったところ、その《愚》を完全に自覚することで、人は絶対者にまみえることができる。
確かに思考停止している。けれども虚無の崖をぴょんと超えている。そういう意味で意味のない思考をぐるぐるしている人より「一歩先」にいると思う。
現代人は基本的に自分の知性に誇りを持っている。多分科学が成功したからだろう。こういう時代にこそソクラテスが必要であると思う。現代日本にソクラテスがいれば、「幸福とは何か」「勇気とは何か」「死とは何か」「正義とは何か」という議論を人に吹っかけまくるだろう。そして、人は自分が何も知らないことを知るのだ。
そもそも思考している人がいるんだろうか。悩みと思考は違う。思考というのを大げさにしたのが「哲学」だと思うけれど、僕は、哲学というのは「ロゴス(言葉、論理)」で世界を探求したいという、西洋人のローカルな性癖に過ぎないと思う。それに乗っかる必要はない。現に東洋では体験知で世界を探求する方法がとられていた。
思考停止、というが、思考して何か分かるんだろうか。僕は何もわからなかった。何も分からない不可知論の立場は、僕にとって不安すぎた。「何も分からないなら、こっちにそのまま救う店があるから来ないか」と誘われたので、絶対者に、ひ弱な自分を任せることに決めただけだ。
思考を停止せずに、突っ走って、「生きる意味」だとか「結局死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えを出せるなら、答えを教えて欲しい。教えてくれるなら、今すぐ買った仏書を焼き捨てて、教えてくれた人に帰依する。
思考というのは結局「何も分からない」と知っていく作業に過ぎないと思う。何も分からない人が、何かを考えて、また何も分からないに帰るだけだ。愚→自惚れ→愚という作業が行われているだけだ。そして思考が完全に行き詰ったところ、その《愚》を完全に自覚することで、人は絶対者にまみえることができる。
確かに思考停止している。けれども虚無の崖をぴょんと超えている。そういう意味で意味のない思考をぐるぐるしている人より「一歩先」にいると思う。
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