表面じゃ足りないもっと肉の奥の奥の奥の命の命 #tanka
最近ベルクソンを読んでいる。まだ読み込んでいないのだけれど、ニーチェと一括りに「生の哲学」と言われている理由は分かったように思う。ベルクソンは「知性」を、近代の哲学者とは違って、独立したものだと認めていない。ニーチェもそうだ。ニーチェは「真理とは生きるために必要な誤謬」とまで言い切っている。まず「生きている」という根本事実があり、そこから哲学や科学などの知性が派生してくる。
僕らはみんな生きている。哲学は神学の端女という言葉があるが、それをもじって哲学や科学は「命の端女」と言えると思う。哲学や科学は、命に従属しているもので、命が王様である。だから、この「命」を生け捕りにしなければならない。知性や科学で「生きている」という事実を解明することはできない。それらよりも「生きていること」が先にあるのだから。
「思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。————沢木興道」
命の奴隷でしかない知性では、「本当」を掴むことはできない。無量寿を生きていたと気づくこと。無量寿の中に、生きていたと気づくこと。それが「本当」だと思う。
僕らはみんな生きている。哲学は神学の端女という言葉があるが、それをもじって哲学や科学は「命の端女」と言えると思う。哲学や科学は、命に従属しているもので、命が王様である。だから、この「命」を生け捕りにしなければならない。知性や科学で「生きている」という事実を解明することはできない。それらよりも「生きていること」が先にあるのだから。
「思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。————沢木興道」
命の奴隷でしかない知性では、「本当」を掴むことはできない。無量寿を生きていたと気づくこと。無量寿の中に、生きていたと気づくこと。それが「本当」だと思う。
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