現実 夢
ツイッターで、人は死ぬと無になると言っている人がいたので なんで? と聞くと「現実的に」と返された。現実ってなんだろう。
一期は夢よ ただ狂えという有名な狂歌にもあるように、日本には伝統的に「これ」を「夢」だと考える思想がある。いろは歌もそうだ。浅き夢見じ 酔ひもせず。
これはおそらく仏教の影響だと思われる。ブッダというのは「覚めた人」と言う意味で、夢から覚めた人間のことである。だから、ブッダ以外は夢を見ている。
白隠禅師だったと思うが、このような話を聞いたことがある。白隠は、小さい頃から死ぬのがしょうがなくて、禅門に入ったが、中国の逸話集を読んでいるときに、悟った禅僧が、首ちょんぱされて殺されたという逸話を読んだらしい。それを読んで「結局悟っても死ぬじゃないか」と思った。けれども悟りを得て、開口一番、「あの禅僧は死んでいなかった!」と叫んだらしい。これは僕の解釈だけれど、首を切られた禅僧は、「夢の中」ではなく「リアリティ」の中に生きていたのではないか。
仏教では究極のリアリティは無分別智と言われる。真如とも言われる。最近ツイッターで見たのだが、現代でも禅の修行をしている人が「私が死んでも《覚》は死なない」と言っていた。超個人的なリアリティが、その人を掴んでいるんだろう。
僕たちは夢を見ていて、夢の中では死んでしまう。けれども覚めたら死なない。しかし、覚めるにはなぜか修行が必要になっている。これではみんな死んでしまう。
幼子が寝ている。幼子は悪夢を見ているが、自分の力では目を覚ますことができない。外から、母親に呼んでもらう必要がある。母親に「〇〇ちゃん、起きて」と声をかけられれば起きる。そして現実を見る。南無阿弥陀仏とは、この母親の呼び声なのであった。
一期は夢よ ただ狂えという有名な狂歌にもあるように、日本には伝統的に「これ」を「夢」だと考える思想がある。いろは歌もそうだ。浅き夢見じ 酔ひもせず。
これはおそらく仏教の影響だと思われる。ブッダというのは「覚めた人」と言う意味で、夢から覚めた人間のことである。だから、ブッダ以外は夢を見ている。
白隠禅師だったと思うが、このような話を聞いたことがある。白隠は、小さい頃から死ぬのがしょうがなくて、禅門に入ったが、中国の逸話集を読んでいるときに、悟った禅僧が、首ちょんぱされて殺されたという逸話を読んだらしい。それを読んで「結局悟っても死ぬじゃないか」と思った。けれども悟りを得て、開口一番、「あの禅僧は死んでいなかった!」と叫んだらしい。これは僕の解釈だけれど、首を切られた禅僧は、「夢の中」ではなく「リアリティ」の中に生きていたのではないか。
仏教では究極のリアリティは無分別智と言われる。真如とも言われる。最近ツイッターで見たのだが、現代でも禅の修行をしている人が「私が死んでも《覚》は死なない」と言っていた。超個人的なリアリティが、その人を掴んでいるんだろう。
僕たちは夢を見ていて、夢の中では死んでしまう。けれども覚めたら死なない。しかし、覚めるにはなぜか修行が必要になっている。これではみんな死んでしまう。
幼子が寝ている。幼子は悪夢を見ているが、自分の力では目を覚ますことができない。外から、母親に呼んでもらう必要がある。母親に「〇〇ちゃん、起きて」と声をかけられれば起きる。そして現実を見る。南無阿弥陀仏とは、この母親の呼び声なのであった。
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