主体のない愛
夜と霧という本で、アウシュヴィッツで強制労働をさせられていた著者が、もうすでに死んでいた妻の愛を希望に生き延びられるというシーンがある。実話である。妻はすでに死んでいたけれど、そのことを知らなかった著者にとってはその愛は大きな生きる糧になった。僕はそれを想像力という言葉で片付けたくない。
真宗の本に、「世界は仁で溢れていて、その仁を身に着けた人を聖人という」と書かれてあったが、そうなのだと思う。世界は目に見えない仁(思いやり)で溢れている。愛の「主体」がいなくても、愛は人間に浸透する。
主体のない愛がある。宇宙は、主体のない愛で満たされている。死んでいる妻の愛を感じたユダヤ人のように、僕たちは主体のない愛を感じることができる。世界に満ち満ちている、主体のない愛を感じることを「信仰」と言うのだと思う。
透明な愛がある。眼に見えない愛がある。霊性の眼によってしか、感じられない愛がある。開眼すれば、誰でも愛を感じることができる。いつでも、どこでも、誰にでも、そそがれている愛がある。それに「気づく」。気づくだけでいい。人間の愛は限りがあるものだ。ならば、宇宙から愛されればいい。
本当に大切なものは眼に見えない。
真宗の本に、「世界は仁で溢れていて、その仁を身に着けた人を聖人という」と書かれてあったが、そうなのだと思う。世界は目に見えない仁(思いやり)で溢れている。愛の「主体」がいなくても、愛は人間に浸透する。
主体のない愛がある。宇宙は、主体のない愛で満たされている。死んでいる妻の愛を感じたユダヤ人のように、僕たちは主体のない愛を感じることができる。世界に満ち満ちている、主体のない愛を感じることを「信仰」と言うのだと思う。
透明な愛がある。眼に見えない愛がある。霊性の眼によってしか、感じられない愛がある。開眼すれば、誰でも愛を感じることができる。いつでも、どこでも、誰にでも、そそがれている愛がある。それに「気づく」。気づくだけでいい。人間の愛は限りがあるものだ。ならば、宇宙から愛されればいい。
本当に大切なものは眼に見えない。

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