宗教 前後 独我論の突破
「存在することは知覚されることである」という有名な残した哲学者がいる。僕はかなり好きな哲学者なんだけど、ジョージ・バークリーという。以前記事にしたので引用する。
バークリーは「神」を措定して、神の知覚を人間の知覚の外へ置いたので、独我論を免れたが、もし神がいなければ独我論(ただ私だけが存在する)の体系になる。そして、ショーペンハウアーのいうように独我論者は論駁できず、無視することしかできない。
僕たちは「自分の見えている世界=世界そのもの」「主観世界」からは抜け出ることができないのだろうか?
「客観」など存在せず、全ては自分の夢のようなもの。これを哲学的に論破するのは難しい。
昨日、人に「信仰をしている」と言ったら「私は宗教を作りたい側の人間だからなあ」と言われた。「作った宗教」は、人間の主観の中にある妄想に過ぎないので、夢から覚めるという効用はない。人間が作った宗教は、夢の延長に過ぎない。観念に過ぎない。人間「以後」の宗教は、妄想である。
久遠の昔から存在する阿弥陀仏、哲学的に言えば真如、が独我論=夢の外から響いてくる。人間「以前」もっと具体的に言えば僕の生まれてくる前、生物の生まれる前からある「真理」が、僕の主観に食い込んでくる。禅の公案に「父母未生以前の本来の面目」というのがあるが、父親と母親「以前」の「真理」ということだろう。宗教はどこまでも「以前」である。
人間以後の宗教は夢に過ぎない。僕の主観世界=夢、以前から聞こえてくる「南無阿弥陀仏」が、僕の夢を覚めさせる。
細川巌師が、阿弥陀の熱で、卵の殻が暖められて、自我が破られてひよこが生まれてくると、よくたとえていたが、味わい深い例えである。
バークリーの論旨は至って明解で、「知覚と存在は切り離せない」「精神と観念の外部には何もない」の2つに尽きる。
@知覚と存在は切り離せない。誰にも見られていないのに、存在しているもの(例えばあなたの家のトイレとか)を想像することができるだろうか?僕たちが想像している時点で、その事物は知覚されている。知覚と存在を頭の中で切り離すことができるだろうか?僕たちの「知覚」なしの存在は、考えられるだろうか?そんなものはない。思考実験してみてほしい。
A精神と観念の外部には何もない。花が見えるとしよう。その花は「自分にとって見えている花(観念)」である。その「自分にとって見えている花(観念)」の「外側」に、その観念の原因である「花に類似した物質」のようなものは考えられるだろうか?バークリーは否と言う。その花の観念の基盤になっているような物質を「考えよう」としても、それは「考えられたもの」なので、観念である。もしそれが知覚できないような存在ならば、知覚と存在は切り離せないのでそんなものは存在しない。観念の原因は、物質ではなくて精神である。
「知覚しているものしか存在していると言えない」というテーゼは論駁するのが難しい。唯物論者が石を蹴って、「これでバークリーを論駁した!」と言ったという逸話があるが、その石もその唯物論者の観念でしかない。
バークリーは「神」を措定して、神の知覚を人間の知覚の外へ置いたので、独我論を免れたが、もし神がいなければ独我論(ただ私だけが存在する)の体系になる。そして、ショーペンハウアーのいうように独我論者は論駁できず、無視することしかできない。
僕たちは「自分の見えている世界=世界そのもの」「主観世界」からは抜け出ることができないのだろうか?
「客観」など存在せず、全ては自分の夢のようなもの。これを哲学的に論破するのは難しい。
昨日、人に「信仰をしている」と言ったら「私は宗教を作りたい側の人間だからなあ」と言われた。「作った宗教」は、人間の主観の中にある妄想に過ぎないので、夢から覚めるという効用はない。人間が作った宗教は、夢の延長に過ぎない。観念に過ぎない。人間「以後」の宗教は、妄想である。
久遠の昔から存在する阿弥陀仏、哲学的に言えば真如、が独我論=夢の外から響いてくる。人間「以前」もっと具体的に言えば僕の生まれてくる前、生物の生まれる前からある「真理」が、僕の主観に食い込んでくる。禅の公案に「父母未生以前の本来の面目」というのがあるが、父親と母親「以前」の「真理」ということだろう。宗教はどこまでも「以前」である。
人間以後の宗教は夢に過ぎない。僕の主観世界=夢、以前から聞こえてくる「南無阿弥陀仏」が、僕の夢を覚めさせる。
細川巌師が、阿弥陀の熱で、卵の殻が暖められて、自我が破られてひよこが生まれてくると、よくたとえていたが、味わい深い例えである。
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