生きている意味
生きている意味が分からない…。そうこぼす人にたびたび会ってきた。何かに没頭して、そんな問いを忘れている人以外は、生きてる意味なんか分からないんじゃないだろうか。
言語論の意味論で、個人的に一番しっくり来たのは「意味とはその記号がその記号より重要なものを指し示すことである」という定義である。僕たちを記号とすれば、僕より重要なものに僕が関わることが意味だと言える。自分より重要なものなどないと思うが、世間的に言えば、恋愛とか、仕事とか、趣味とか、そういうものを指し示すことが自分が生きている意味と言えるのかもしれない。
僕は、この世で一番尊いことは、他者の苦を抜いて、楽を与えることだと思う。だから、それを娑婆世界で行っている人は、本当に意味のある人生を送っていて、羨ましい。僕にはそんな気力も体力も善性もないので、僕の人生は、意味がない。
僕の人生は意味がない。重要なものを指し示すことがない。ニヒリズムだ。だからそのニヒリズムに、そっと寄り添ってくれるのが、阿弥陀仏なのだと味わっている。部屋に引きこもって生きている意味を見出せない僕を、それでもいいと慰めてくれる、虚無を抱擁してくれるのが、仏だ…。
浄土へ行ったらそこで遊ぶわけではなく、こっちへ帰って来て他人の苦を抜いて楽になる手伝いをするらしい。菩薩へなったら僕にも生きる意味ができるかもしれない。
言語論の意味論で、個人的に一番しっくり来たのは「意味とはその記号がその記号より重要なものを指し示すことである」という定義である。僕たちを記号とすれば、僕より重要なものに僕が関わることが意味だと言える。自分より重要なものなどないと思うが、世間的に言えば、恋愛とか、仕事とか、趣味とか、そういうものを指し示すことが自分が生きている意味と言えるのかもしれない。
僕は、この世で一番尊いことは、他者の苦を抜いて、楽を与えることだと思う。だから、それを娑婆世界で行っている人は、本当に意味のある人生を送っていて、羨ましい。僕にはそんな気力も体力も善性もないので、僕の人生は、意味がない。
僕の人生は意味がない。重要なものを指し示すことがない。ニヒリズムだ。だからそのニヒリズムに、そっと寄り添ってくれるのが、阿弥陀仏なのだと味わっている。部屋に引きこもって生きている意味を見出せない僕を、それでもいいと慰めてくれる、虚無を抱擁してくれるのが、仏だ…。
浄土へ行ったらそこで遊ぶわけではなく、こっちへ帰って来て他人の苦を抜いて楽になる手伝いをするらしい。菩薩へなったら僕にも生きる意味ができるかもしれない。
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