母 真理
四十三、「真理を、女のようなものだと考えてはどうだろう?」というニーチェの誘い。僕は、真理を母のようなものだと考える。
アフォリズムという記事に書いた、短い文章だ。真理というのは何なのか?というのは哲学的には未だに決着がついていない。対応説とか整合説とかごちゃごちゃあるけど、僕は哲学者じゃないので、そういうのは全部無視して、恣意的に真理=母だと定義する。
真理=愛だとか、真理=慈悲だとかでは、何かしっくりこない。真理=優しさでもいいかもしれない。世界で一番優しい思想が、真理である。論理的整合性などは関係ない。優しさが真理の指標である。
キリスト教は、愛する神であると同時に、裁く神だ。優しいけれど、少し怖い。悪いことをすると地獄へ行くかもしれない。哲学を見ると、プラトンの哲学は別に優しくない。カントの哲学を見ると、かなり厳しい。「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というのは論理的に導き出されるものなのかもしれないが、厳しすぎて、とうてい真理ではない。ニーチェの超人になれ!という思想も厳しい思想だ。クリシュナムルティの何物にも依存せずに気づき続けて生きろというのも厳しい。ストア哲学の徳を開発しろというのも厳しいし、ショーペンハウアーの全てをあきらめて生きろというのも厳しい。禅の、座禅や公案をたくさんして見性しろというのも大変だ。「厳しい」というのは誤謬の指標だ。
僕の知る限り、世界で一番優しい思想は浄土教だ。「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、どんな悪人でも、無条件に愛されて、死後は浄土へ行くことができる。父親は厳しいから、誤謬だ。母親は甘やかしてくれるから、真理だ。世界で一番優しい思想が真理だとすれば、浄土真宗が真理である。真理は母親である。
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