狂気 シュルレアリスム 仏教 言語脱落
最近芸術家の人と仲良くなったので、シュルレアリスムについて少し勉強をした。日本語にすると「超現実主義」というらしい。この「超」は超えるという意味ではなく、「強度の」という意味らしい。現実を超える主義だったら、宗教っぽくて好きだったのだが、そういうわけではないらしい。
ここでは主にブルトンの自動筆記について書くけれど、自動筆記のスピードをあげていくと、徐々に「私」という主語がなくなり、「みんな」という主語に変わって行き、徐々にそれも消えて行って、単語の連なりのようになり、狂気に片足を突っ込むようになるらしい。僕は、これは、普段使っている日常言語が解体されて、「存在」を垣間見ることなのではないかと思った。
サルトルの「嘔吐」の有名なシーンを思い出す。
主人公が、マロニエの木を見ているとき、言語本質が脱落して、「怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊」が姿を現す。
仏教の基本思想は「言語の向こう」へ行くことだと言えるが、仏教のような洗練された修行体系がないと、言語が解体されたとき、存在そのものという怪物に出会い、狂気に触れることになる。
そういう意味で、自動筆記は言語の向こうを垣間見たのではないかな、と素人ながらに思った。それを作品にするのは、もう仏像を作るのと同じかもしれない。
阿弥陀仏は、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。」というように、「言語の向こう」にいる存在である。言語の向こうの彼岸が、こちらへやってくる働きが南無阿弥陀仏という名号であり、他力である。柳宗悦は、教養がない民衆が、なぜこんなに芸術的価値の高い民芸品を作るのか、という問いに対して、浄土真宗の信仰があるからだ、と答えた。一文不知の尼入道に、「言語の向こう」からの他力が憑依する。鈴木大拙は森ひなという文盲の信者の詩を紹介しているが、最後に「われのちからでかいてない おやのちからでかきあげた」と記されている。
自動筆記や、嘔吐の体験は、体系のない言語脱落の狂気に陥る。けれども、それが逆に、不安定で、面白みのある作品を作るのだと思う。仏教は言語脱落が、「安全」に行われるようになっているので、禅画を見ても、妙好人の歌を見ても、狂気は微塵も感じられない。
ここでは主にブルトンの自動筆記について書くけれど、自動筆記のスピードをあげていくと、徐々に「私」という主語がなくなり、「みんな」という主語に変わって行き、徐々にそれも消えて行って、単語の連なりのようになり、狂気に片足を突っ込むようになるらしい。僕は、これは、普段使っている日常言語が解体されて、「存在」を垣間見ることなのではないかと思った。
サルトルの「嘔吐」の有名なシーンを思い出す。
主人公が、マロニエの木を見ているとき、言語本質が脱落して、「怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊」が姿を現す。
仏教の基本思想は「言語の向こう」へ行くことだと言えるが、仏教のような洗練された修行体系がないと、言語が解体されたとき、存在そのものという怪物に出会い、狂気に触れることになる。
そういう意味で、自動筆記は言語の向こうを垣間見たのではないかな、と素人ながらに思った。それを作品にするのは、もう仏像を作るのと同じかもしれない。
阿弥陀仏は、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。」というように、「言語の向こう」にいる存在である。言語の向こうの彼岸が、こちらへやってくる働きが南無阿弥陀仏という名号であり、他力である。柳宗悦は、教養がない民衆が、なぜこんなに芸術的価値の高い民芸品を作るのか、という問いに対して、浄土真宗の信仰があるからだ、と答えた。一文不知の尼入道に、「言語の向こう」からの他力が憑依する。鈴木大拙は森ひなという文盲の信者の詩を紹介しているが、最後に「われのちからでかいてない おやのちからでかきあげた」と記されている。
自動筆記や、嘔吐の体験は、体系のない言語脱落の狂気に陥る。けれども、それが逆に、不安定で、面白みのある作品を作るのだと思う。仏教は言語脱落が、「安全」に行われるようになっているので、禅画を見ても、妙好人の歌を見ても、狂気は微塵も感じられない。
わたしゃしあわせ
なむあみだぶが 目に見えの
虚空を見るには虚空にだかれて
平ら一面 虚空の中よ—————浅原才市
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