扉は開いている 安心 自殺
部屋が煙たくても少しならばそこにいられるが、もっと煙が多くなれば、私は部屋から出ていく。ドアはいつも開いているのだから——————エピクテトス
清沢満之は、自分の三部経は阿含経とエピクテトスの語録と歎異抄だと言った。精神主義は少し自力臭くて僕は苦手なんだけれど、エピクテトスの好きな言葉と歎異抄を考えてみる。
「ドアはいつも開いているのだから」これは比喩で、煙(苦しみ)が増えるのならば、ドアから出る(自殺する)という意味である。ストア哲学は自殺を消極的にだが勧めている、稀有な哲学である。
いつでも死ねることができる。それは確かに魂の安寧にとって健康的な考えかもしれない。ニーチェもこう言っている。「自殺を思うことは、優れた慰めの手段である。これによって人は、数々の辛い夜をどうにか堪え凌ぐことができる。」
キリスト教などでは禁止されているが、実は浄土真宗でも自殺は禁止されていない。親鸞聖人も病苦で自殺したお同行の往生を喜んでいる手紙を残しているらしい。
「ドアはいつも開いている」というエピクテトスの洞察と、そのドアの向こうに浄土の光が見えるという浄土教の救い。ドアはいつも開いているからこそ、そこから光が差し込んで、生きる勇気が与えられる。ニーチェが言っているように、自殺を思うのは慰めだ。つらいときは、ちらちら、開いているドアを見る。そこからはいつも浄土の光が差し込んでいる。自殺を思うからこそ生きていける。僕は、自殺するのには反対だが、いつもドアは開いているということ、ドアの向こうは浄土であることを念頭に置けば、そこには安心があるんではないかと思う。
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