人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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ニーチェはつまらない

 最近スピノザやらニーチェやらの「生の哲学」を読んでいる。スピノザは己の体系に否定性、有罪性を認めなかったが、ニーチェは明らかにキリスト教の「生への侮辱」を攻撃している。キリスト教は人間は原罪を持っているという、そしてその原罪はイエス・キリストによって償われた。だが人間は罪深い。懺悔しながら生きなければならない。それがニーチェにとって吐き気をもたらすらしい。
 ニーチェは徹底的にこの「生は罪」という思想を攻撃する。生は無垢であり、なんの有罪性もない。償われる必要もない。ニーチェにとって大事なのは「より強く!」であり、偉大な神という妄想と卑小な道徳を守って生きている弱者には吐き気がする。

 ニーチェはつまらない。ニーチェ自身がよく説いている「深み」がない。ニーチェは他者の深層心理を見る観察眼に長けているが、自らの思想には全く深みがない。ニーチェは友達の誰かに自分の思想を「精神的貴族主義」と評されて喜んだらしいが、本当にそれだけでしかない。「卑小な道徳を超え、貴族として生きる」
 僕は思想の「深み」というのは「否定」の契機がないと現れないと思う。生は素晴らしい!ダ・カーポ!より強く!というのは僕にとってつまらない。退屈ですらある。強くなってどうするんだ。自己満足の哲学じゃないのか。

 スピノザの生にも有罪性はない。ただし神はいる。だから好きだ。現世を否定する「べき」だとは言わないけれど、「無責任」の哲学を説くのなら、僕は清沢満之のほうが深いと思う。自らの有罪性についての深い自覚と、それを背負ってくれる如来の存在。

 そもそも、生を肯定している人に、思想なんていらないんじゃないか。思想は全て「否定」「攻撃」だ。反出生信仰を見るといい。
 ただの否定も、ただの肯定もつまらない。否定を包む肯定。罪を抱擁する如来。
 ニーチェから学ぶべきものは、そのつまらない「生信仰」ではなくて、意地の悪い眼光だ。

思想 赤子

 ニーチェは「哲学者」のことを「真理」の「弁護士」と呼んでいる。原口統三も、「自己の思想を表現してみることは、所詮弁解にすぎない」と言っている。僕も「思想」というのはなんか胡散臭いものだと思う。

 ニーチェの根本思想に3つの段階というのがあって、一つ目はラクダ、二つ目は獅子、三つ目は赤子なんだけれど、ここでいうラクダというのはいろいろな歴史的、社会的な義務や道徳を背負っている人間のメタファーで、獅子というのは「我欲す」と言って社会的な「価値」に反旗を翻した者のメタファーで、赤子というのはその先にある「無垢」な「肯定」だ。
 一休の短歌にこういうのがある。「幼子の しだいしだいに知恵つきて 仏と遠くなるぞ 悲しき」幼子が、だんだん知識や理屈を覚えて、仏=命から遠ざかる。掴まなきゃいけないのは道理理屈である「思想」ではなくて、この「幼子」の精神だと思う。幼子は何も思想を持っていない。そこが「急所」だ。「根本」だ。
 反出生主義、というのが最近流行っているが、一番赤子から離れているんじゃないかと思う。理屈をこねて、「生命」を否定する。赤子というのは「そのまま」で、「生命の大肯定」である。イエス・キリストは「神の国に入るのは幼子のような者である」と言った。暁烏敏という大谷派の偉い人も「諸君、如来の前で赤子のようになれよ」と言っていた。宗教とは、世界の大肯定であり、思想よりも根源にある「赤子」を掴むことだ。

不思議

 不思議とは一般に使われる言葉だけれど、もともとは仏教語だ。「不可思議」の略で、文字通り思議できないということだ。今まで気にも留めなかった言葉だけれど、最近妙にこの不思議という言葉を考えている。
 論理哲学論考によると、命題=思考であり、それ以外のものは思考することができないらしいが、この「語りえぬもの」というのはまさに「不思議」という言葉が表していると思う。
 不思議って言葉は不思議だ。無意味ではない。語りえないんだけれども、確かにそこにある。人智を超えたもの。
 世の中、不思議なものだらけじゃないだろうか。命題=思考説は一旦忘れて、世の中を見渡してみると、僕がいるのも、世界があるのも、生きているのも、死んでいくのも、百合の花が綺麗なのも、僕はどう言い表したらいいのか分からない。不思議としかいいようがない。世界は「不可解」と言い残して自殺した青年もいたが、どうもニュアンスが違う。どちらも同じような事態を現しているんだろうけれど、「不思議」には「奥行」がある。

 一番の不思議は僕が生きていることだ。どう考えても納得できない。意味が分からない。不思議だ。でもそれは決して無意味ではない。語りえないだけだ。
 この命の不思議を阿弥陀仏というんじゃないか。世界って不思議だ。

生きる意味

世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。…。それは世界の外になければならない。—————論理哲学論考

 生きる意味というのを、理性的に考えすぎていた気がする。例えば阿弥陀仏がいる。「で、それが何になるのだ?」神がいる。「で、それで?」
 生きる意味というのを、「濃さ」とか、そういう概念で捉えたほうがいい気がしてきた。そういう意味で、僕は「濃さ」のプロトタイプを「ベッドで恋人と見つめあっている時」だと言いたい。
 「意味性」の「濃さ」が「充満」しているときに生きている意味がある。例えば僕がベッドで阿弥陀を念じている時、そこは「世界の外にいる(見えない)他者」と見つめあっている「濃さ」がある。強い濃度がある。
 理性は言う。「で、それがなんなのだ?」阿弥陀と見つめあっている僕はこう返すだろう。「これが生きている意味だ。」
 
 夜、ふと空を見上げたときの神秘性。生きている意味とは、語るもの=知性で捉えるものじゃなくて、示すもの=生きることなんじゃないか。生きる意味というのは理性で捉えることのできない「非合理」で、世界の外にいる「非合理」と見つめあうことで「意味」が「供給」されるんじゃないか。僕はまだまだ生きなければならないので、こういう方向で拙い思索を進めたい。

会う

 人はなんのために生まれてきたの、と念仏者に聞いたら「南無阿弥陀仏に出会うため」と答えるだろう。ということは、逆算すれば人は何かに出会うために生きてるんじゃないか。プチ南無阿弥陀仏に出会うために生きてるんじゃないか。

 何に出会うのか。まず思い浮かぶのは人間だろう。法話で、急性白血病で亡くなった10歳の子供が「お母さんに出会うために生まれてきた」と言って死んでいったという話を聞いた。出会いとはそういう性質のもので、生の根源的意味を決めるんじゃないだろうか。
 何に出会うんだろう。神社にいる蟻、神様、散歩している人。恋人、家族。仕事、哲学。もちろん出会いには別れがあるが、その自分を通過していくといった過程にも濃密な「意味」があるんじゃないだろうか。
 僕のお母さんは死んでしまったけれど、いろんな人に出会った。僕はあえて、お母さんの生まれてきた意味は「僕に出会うため」だと言いたい。

 何に出会うかが決定的で、ぼくは「無限なもの」に出会うのが「究極」だと思うけれど、僕の友達は恋人に出会ったり、研究職に出会ったりしている。恋人たちがよくいう「あなたに出会うために生まれてきた」というのが人間の根っこからの叫びなのかもしれない。

 阿弥陀経に倶会一処という言葉がある。最終的にみんな浄土で会えるという意味である。あなたは何に出会いましたか。

永遠

 永遠について、強い憧れがある。始皇帝にも負けないぐらい。なぜなら死ぬのが怖いから。無が恐ろしいから。死ぬなら人生は無意味だから。
 最近読んだ本にこういう話が載っていた。
 お婆さんが死んで、極楽へ往生する。先に死んだお爺さんと、感動の再会をして、お互いの身の上話をして喜ぶ。けれどもずっと何日も何か月もそうしているうちに、二人の顔に影が差してくる。二人でずっとぼんやりしている。お婆さんがふと、こう口にする「地獄って一体どうなっているのかしら」その途端、お爺さんの顔が光り輝いた。
 要は、永遠は「退屈」だということだ。小学生の頃読んだ火の鳥で、何かの罰で動けない、大きい蜘蛛のような物体にされて、永遠にそこで意識し続けなければならないという罪人の話が書いてあった。とても恐ろしいと思った。MOTHER3というゲームに、「ぜったいあんぜんカプセル」というカプセルが出てくる。そのカプセルは絶対に安全で、一度閉まると絶対に開かない。そこに「ポーキー」という不老不死の敵キャラが入れられる。ポーキーは永遠にそのカプセルの中で意識し続ける。ジョジョの2部にも同じく不老不死になって宇宙を漂うことになったボスが出てくるのだが、そのボスは最後には「考えるのをやめた」と出てくる。
 人間はこのように創作物の中で、「永遠」を恐ろしいもの、「極度の退屈」と描くことがある。僕もただの永遠ならそう思うと思う。

 浄土真宗は「還相回向」という思想がある。浄土へ行っても仏にはならず、菩薩になって、この世に帰って来て衆生済度の手伝いをするという思想だ。その手伝いも嫌々やるのではなくて、「遊び」のようなものらしい。永遠に人助けをする。永遠に苦しんでいる人が楽になれるように手助けをする。そこに退屈はないんじゃないだろうか。永遠に遊びながら抜苦与楽をしていく。そういう世界がある。

なんで生きてるんだろう

「僕たちもいい年なんだしさ、人生は死ぬまでの暇つぶしとか言ってないで、本気で生きる意味について考えてみようよ」
「どうせ暇だしね。でもとっかかりがないなあ。生きる意味と言えば宗教が真っ先に思い浮かぶけれど、宗教は生きる意味たりえるのかしら」
「まず意味というのが不明瞭だね。意味とはなんなのだろう。アリストテレスは原因を四つに分けたが、生きる意味とはその目的因なんじゃないだろうか」
「キリスト教では、神の計画、目的、直線的な目的に向かって生きていると言えるかもしれない。反対に、仏教などでは目的を完全に排除する。「幸せを追い求めてるときは幸せじゃない」ってね。だから無目的に座禅をする。そこに意味があるんじゃないか」
「無目的というのは、現在の科学的世界観と同じだね。仏教というのは科学と同じ価値観を共有してるのかい?無目的が生きる意味だとは僕はとうてい思えないな。」
「もしもだよ、浄土や神の国に行くことが人生の意味だとして、そこに行ったらどうするんだい、そこに行ったら生きる意味があるのかい」
「真宗では菩薩になって衆生済度をするというが、神の国のことは聖書には詳しく書いてないな。その超越的な世界が生きる意味だというのも怪しい。それはこの現実と何が違うのだ。ただ「永遠」ってだけじゃないか。」
「そう。そこなんだよ。永遠によって死を先延ばしにすることができる。一切を無価値にする死を永遠に先延ばしにすることによって、意味を永遠に生産できるようになるんじゃないか。」
「そうかな。神、がいるとしよう。そして神が全知全能を僕に与えてくれるんだ。そうすれば生きる意味が分かるかな?」
「そりゃわかるだろう」
「いや、僕は分からないと思うな。僕は全知全能なんだけど、そのあとにこう言うことができる「で、それがなんなんだ?」」
「そりゃ全知全能じゃないから今想定できてるだけで、全知全能だったらそんなこと言わないかもしれないじゃないか」
「そもそも神がなんで存在してるか分かるか?」
「分からないよ」
「神が存在している。で、それが何なんだ?と言えてしまうんだよこれが理性の恐ろしいところなんだよ」
「じゃあ僕らの敵は、「で、それが何なんだ?」に集約されてるみたいだね」
「今までの会話の流れだとそうなるみたいだね」
「それが何なんだ?を言わせない方法を考える必要がある」
「言わなきゃいいんじゃないか、座禅をしてる人は黙ってるじゃないか」
「黙って座禅して、で、それが何になるんだ?」
「座禅は完結しているんだろ、疑問を挟む余地がない」
「そうかな、そこは議論の余地があるところだと思うよ」
「————もし僕が神だとしたら、この世界は一体なんなんだろう、とは思うだろうな」
「この世界だけじゃないだろう。で、"俺"は一体結局なんなんだ?と思うんじゃないか」
「アプローチを変えてみないか。意味っていうのは理性で分かるものじゃなくて、感じるものなんだよ、例えば、カナブンの死体を見たときとか、アスファルトに咲く花を見たときとか、恋人とベッドで見つめあってるときとか」
「君も随分とロマンチストだな。確かにそういうときはなにか「意味性」のようなものがこの夢の中へ充満している気がする。我ー汝という奴だな。」
「そうそう、悟ったら、答えが分かるんじゃなくて、問題が—————」

『Kちゃん!ご飯よ!』
「分かった!すぐ行く!」

とある革命家

 革命には暴力が必要だ。このクソったれの資本主義社会、資本家が暴利を貪る社会をぶっ潰すには革命しかない。コミューンを作ってそこに資本主義ではない共同体を作る?じゃあ他の奴隷たちはどうするんだよ。俺たちはこの奴隷たち、労働から疎外されているプロレタリアートを開放する義務があるんだよ。これは義務だ。俺の夢やヒロイズムなんかじゃない。命法だ、義務だ。俺の良心がそう命ずる。そして、この良心に賛同してくれた仲間がここに数万人いる。この革命で、まずは国家権力を潰す。内閣総皆殺しだ。殺し。殺し。殺す。殺す。
 「おい、死んでも死ぬなよ!お前ら!」
 持っているマイクで士気をあげる。これが成功すれば、下部構造からひっくりかえるはずだ。資本主義は絶対に潰さなければならない。共産主義以後が、人間の歴史で、今までの階級闘争は全部茶番だったんだよ。俺たちが茶番を終わらせる。
 「おー!」「おー!」「おー!」「おー!」
 国家の犬ども、クソ機動隊を殺す。血で足元がべちゃべちゃだ。血は革命のシンボルだ。
 「血を降らせ!血を流せ!殺せ!相手を人間だと思うな!」
 俺たちは国会の方へどんどん近づいて行った。
 「うっ」気を失った。
 
 瞳を開けると、病院にいた。隣にはBがいた。
 「おい、どうなった?」
 「はい、機動隊も政治家も全員皆殺しにしました」
 「そうか、やはり海外から武器を密輸したのがよかったな。これでまずは俺が独裁をして、そのあとは私的財産のない、疎外のない本当の社会が待っている…」

ガガガガガガ!
俺を包んでいたカプセルが物凄い音を立てて開く。
「いかがでしたか?」
「いやあ、夢が叶ったよ。あ、いけね、もうこんな時間だ」
「またいつでもご利用になってください」
 俺は「ドリームコーポレーション」という会社をあとにした。少し昼休みを超えちゃったから、上司に怒られるかもしれない。俺は急いで自分の会社へ走った。

信仰適正

 信仰ができない人はいるか?結論から言うと、いない。法蔵菩薩が「五劫の思惟」をして全ての人を助けるという願を立てて、その願はもう成就しているから。もし助かりたくなかったら、思惟中に「私だけは地獄に落としてくれませんかね…」と断りを入れるべきだった。それをしていない人は全員救われる。
 しかも真宗の信心は阿弥陀仏から賜るものなので、誰でも聴聞をしていれば信心を貰う事ができる。

 というのはまあ半分本気で半分冗談で、でも僕は全ての人は信仰できると思う。なぜか?それは僕ができたから。僕がいかに信仰適正のない男かを示そう。
 
・理屈っぽい
何かしらに理屈や理由がないと納得できない。だから6年間も哲学を勉強していた。屁理屈屋とよく言われる。
・頭がいい
正直バカな素直な人(褒めてる)はスッと信仰に入る人も多いと思う。そういう人も何人か見た。
・懐疑主義的な部分がある
岩波文庫で古代懐疑主義入門という本があるのだが、あの本が大好きだ。全てのことは疑うべきだし、だから西洋哲学をしていた。
・科学的教育を受けた
これが決定的かもしれない。しかも16歳という多感な時期にドーキンスの
「利己的な遺伝子」という科学的ニヒリズムに陥る本を読んだ。僕は今でもこの本が100パーセント正しいと思っているし、僕のニヒリズムはニーチェの言うキリスト教的ニヒリズムではなくて、進化論的ニヒリズムだ。
・某真理教のせいで宗教にいいイメージがなかった。
・宗教は弱くてバカな人がするものだと思っていた。特に自力仏教を学んでいる時は浄土真宗を見下していた。
・共同体とか群れるのが嫌い。だから僕は寺に一度も行ったことがない。

 本当に信仰適正がない。才能がない。でも入信できた。最近「自分はどうせ信仰できない」と言っている人とたまに出会うけれど、僕でもできたんだからできると思う。

 僕なりにその理由を考える。
 キリスト教は「信仰」ということについての定義がない。だからよくわからない。浄土真宗ははっきり定義されている「疑いあることなし」ということが信心だ。浄土真宗の信心は、「阿弥陀仏が必ず助けてくれる」という思いを作っていく足し算ではなくて、疑いを引いていく引き算だ。
 仏書を読んだり、聴聞をしていると、徐々に弥陀の光明によって(ほんとか?脳のどこかに影響してるだけじゃないのか?ほら、疑い深いでしょ)徐々に「はからい」がマイナスされていく。自分の科学的世界観に、「阿弥陀仏は必ず助けてくれる」という信念を足していくのではなくて、「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」に疑いがない状態にしていく。足し算ならば、自分の信念とバッティングすることもあるかもしれないが、本当に「南無阿弥陀仏」に疑いがなくなるというだけなので、特に信念とか関係ないと思う。
 僕でも信仰できたので、誰でもできると思う。信仰が欲しい人は、必ず手に入る。興味ない人や嫌いな人は別に信仰しなくていいけれど、「信仰してみたいけど自分なんかじゃ無理」と思っている人は参考にしてほしい。

テスト

 ツイッターで、何もかも虚しい、信仰も虚しい、薬を飲むと虚無感がなくなる、とツイートしたら友達に
「別にのちゃぴんの信仰を否定するわけではないのだ
でも、信仰をしてもむなしく、かつベンゾを飲めば虚しさが解消されるならば、信仰よりも薬の方が救いの力としては強力である。ということにはならないのだ?
繰り返しだけどこれは別に信仰することを否定したいわけではないのだ。純粋な疑問なのだ」
 と言われたので、こう返した。
「なんかチャップリンの名言みたいな
ズームで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だみたいなのあるやん
信仰の救いってそんな感じだと思う
個々の瞬間は確かに虚しいこともあるかもしれないけど、人生全体が救われる」

 以前僕は別のブログに、人間は自分で「テスト」を作っていると書いた。例えばこんな風に。

氏名     番号
@恋人がいる(20点)
A家族がいる(20点)
B満足できる仕事がある(20点)
C今日遅刻せずに仕事に行く(2点)

 こんな風にテストを作っていると書いた。そして、僕は
@呼吸をしている(100点)
 というテストにしたらどうか、と提案した。これは確かに可能で、所詮脳内の「思考」がテストを作りあげているだけなので、修行をして自分で作り上げていたテストの「思考」を捨てれば、100点満点の人生を送れる。座禅とはそういうもんではないだろうか。

 ただ人間は、社会的な圧力などによって、テストを捨て去ることは難しい。瞑想などの修行が必要になってくる。
 でも、それらが不可能でも「これさえあれば本当に死んでいい」というものが一つでもあれば、それが合格の印になるだろう。それが南無阿弥陀仏だと思う。

氏名     番号
@南無阿弥陀仏に出会う(100点)

 人生が合格する。友人の言うように、個々の場面では虚しい気持ちになることもあるけれど、南無阿弥陀仏に出会えれば、「この夢」全体が全て合格になる。言い換えれば、生死の問題に解決がつく。それゆえ浄土真宗は仏法である。

 「仏教というものは「ああ人間に生まれてきてよかった」ということを教えるものである。」
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