信仰適正
信仰ができない人はいるか?結論から言うと、いない。法蔵菩薩が「五劫の思惟」をして全ての人を助けるという願を立てて、その願はもう成就しているから。もし助かりたくなかったら、思惟中に「私だけは地獄に落としてくれませんかね…」と断りを入れるべきだった。それをしていない人は全員救われる。
しかも真宗の信心は阿弥陀仏から賜るものなので、誰でも聴聞をしていれば信心を貰う事ができる。
というのはまあ半分本気で半分冗談で、でも僕は全ての人は信仰できると思う。なぜか?それは僕ができたから。僕がいかに信仰適正のない男かを示そう。
・理屈っぽい
何かしらに理屈や理由がないと納得できない。だから6年間も哲学を勉強していた。屁理屈屋とよく言われる。
・頭がいい
正直バカな素直な人(褒めてる)はスッと信仰に入る人も多いと思う。そういう人も何人か見た。
・懐疑主義的な部分がある
岩波文庫で古代懐疑主義入門という本があるのだが、あの本が大好きだ。全てのことは疑うべきだし、だから西洋哲学をしていた。
・科学的教育を受けた
これが決定的かもしれない。しかも16歳という多感な時期にドーキンスの
「利己的な遺伝子」という科学的ニヒリズムに陥る本を読んだ。僕は今でもこの本が100パーセント正しいと思っているし、僕のニヒリズムはニーチェの言うキリスト教的ニヒリズムではなくて、進化論的ニヒリズムだ。
・某真理教のせいで宗教にいいイメージがなかった。
・宗教は弱くてバカな人がするものだと思っていた。特に自力仏教を学んでいる時は浄土真宗を見下していた。
・共同体とか群れるのが嫌い。だから僕は寺に一度も行ったことがない。
本当に信仰適正がない。才能がない。でも入信できた。最近「自分はどうせ信仰できない」と言っている人とたまに出会うけれど、僕でもできたんだからできると思う。
僕なりにその理由を考える。
キリスト教は「信仰」ということについての定義がない。だからよくわからない。浄土真宗ははっきり定義されている「疑いあることなし」ということが信心だ。浄土真宗の信心は、「阿弥陀仏が必ず助けてくれる」という思いを作っていく足し算ではなくて、疑いを引いていく引き算だ。
仏書を読んだり、聴聞をしていると、徐々に弥陀の光明によって(ほんとか?脳のどこかに影響してるだけじゃないのか?ほら、疑い深いでしょ)徐々に「はからい」がマイナスされていく。自分の科学的世界観に、「阿弥陀仏は必ず助けてくれる」という信念を足していくのではなくて、「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」に疑いがない状態にしていく。足し算ならば、自分の信念とバッティングすることもあるかもしれないが、本当に「南無阿弥陀仏」に疑いがなくなるというだけなので、特に信念とか関係ないと思う。
僕でも信仰できたので、誰でもできると思う。信仰が欲しい人は、必ず手に入る。興味ない人や嫌いな人は別に信仰しなくていいけれど、「信仰してみたいけど自分なんかじゃ無理」と思っている人は参考にしてほしい。
しかも真宗の信心は阿弥陀仏から賜るものなので、誰でも聴聞をしていれば信心を貰う事ができる。
というのはまあ半分本気で半分冗談で、でも僕は全ての人は信仰できると思う。なぜか?それは僕ができたから。僕がいかに信仰適正のない男かを示そう。
・理屈っぽい
何かしらに理屈や理由がないと納得できない。だから6年間も哲学を勉強していた。屁理屈屋とよく言われる。
・頭がいい
正直バカな素直な人(褒めてる)はスッと信仰に入る人も多いと思う。そういう人も何人か見た。
・懐疑主義的な部分がある
岩波文庫で古代懐疑主義入門という本があるのだが、あの本が大好きだ。全てのことは疑うべきだし、だから西洋哲学をしていた。
・科学的教育を受けた
これが決定的かもしれない。しかも16歳という多感な時期にドーキンスの
「利己的な遺伝子」という科学的ニヒリズムに陥る本を読んだ。僕は今でもこの本が100パーセント正しいと思っているし、僕のニヒリズムはニーチェの言うキリスト教的ニヒリズムではなくて、進化論的ニヒリズムだ。
・某真理教のせいで宗教にいいイメージがなかった。
・宗教は弱くてバカな人がするものだと思っていた。特に自力仏教を学んでいる時は浄土真宗を見下していた。
・共同体とか群れるのが嫌い。だから僕は寺に一度も行ったことがない。
本当に信仰適正がない。才能がない。でも入信できた。最近「自分はどうせ信仰できない」と言っている人とたまに出会うけれど、僕でもできたんだからできると思う。
僕なりにその理由を考える。
キリスト教は「信仰」ということについての定義がない。だからよくわからない。浄土真宗ははっきり定義されている「疑いあることなし」ということが信心だ。浄土真宗の信心は、「阿弥陀仏が必ず助けてくれる」という思いを作っていく足し算ではなくて、疑いを引いていく引き算だ。
仏書を読んだり、聴聞をしていると、徐々に弥陀の光明によって(ほんとか?脳のどこかに影響してるだけじゃないのか?ほら、疑い深いでしょ)徐々に「はからい」がマイナスされていく。自分の科学的世界観に、「阿弥陀仏は必ず助けてくれる」という信念を足していくのではなくて、「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」に疑いがない状態にしていく。足し算ならば、自分の信念とバッティングすることもあるかもしれないが、本当に「南無阿弥陀仏」に疑いがなくなるというだけなので、特に信念とか関係ないと思う。
僕でも信仰できたので、誰でもできると思う。信仰が欲しい人は、必ず手に入る。興味ない人や嫌いな人は別に信仰しなくていいけれど、「信仰してみたいけど自分なんかじゃ無理」と思っている人は参考にしてほしい。
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