人生入門

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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

もっとも高い芸術はすべてそのように人の魂の底にしみて、霊を目ざめさせるものでなければならぬだろう—————川端康成

 美というものを最近はなんとなしに考えているけれど、霊性といってもいいし、仏性と言ってもいいし、神性と言ってもいいし、イデアと言ってもいいけれど、美というのは何かしら永遠に関係している気がする。プラトンのイデア論はそのことを隠さずに、そのまま言った。「美しいものは、永遠なる美のイデアを分有しているから美しい」
 散る桜のような無常の美、滅びゆく廃墟の美というのもあるが、基本線は永遠性のアトムを持っていることだと思う。つまり「時よ止まれ、お前は美しい」

 これを逆の方から言うと、冒頭の川端康成の引用のように、自分の霊性を開花させるものを美だと言ってもいいかもしれない。人間には何かしら永遠な部分がある。その種を発芽させる縁が美だ。

 「時よ止まれ、お前は美しい」というのは天才詩人の吐いた、普遍的なセリフであるように思う。美しい恋人とベッドで見つめあっている時、吐く言葉。「この時間がずっと続けばいいのに」

 世界は美しい。僕は自然というのは本当に美しいと思う。子供の頃は、半日アリの巣を観察する行為を毎日続けていても飽きなかった。
 自殺志願者によく「生きてたらいいことあるから生きよう」と言うけれど、「世界は美しいから、生きようよ」ということは可能だろうか。世界は美しいから、生きるに値する。道端に咲いている一輪の百合、天使のようにゆっくり振ってくる雪。世界が美しいから、生きる。僕は美というのは、世界を肯定する力があるように思う。永遠性が命を貫く。そういう瞬間がある。

公案

 僕は実存に対する哲学的に一番深い問いは「自殺するべきかどうか」だと思うが、世界に対する一番深い問いは「なぜ無ではなく、何かがあるのか」だと思う。
 禅の公案のようなものだ。「両手をうてば声がするが、隻手(片方の手)には何の音があるか」これと同じような問いだ。考えるだけで頭がショートする。
 この事実を「不可解」と言って自殺した青年もいるし、同じく「不可解」と言いながら仏智に帰依していった僧もいる。ただこれは世界のこの問いをどの角度から見るかによって、世界に対する態度も変わると思う。
 理性によって、理解しようとすれば「不可解」と言いながら自殺するしかないだろう。ただこの「不可解」という言葉を様々に言い換えれば微妙なニュアンスで、世界への視線を変えることができると思う。例えば、不思議。例えば、神秘。
 禅の公案は間違いなく宗教的営みだが、この「なぜ無ではなく、何かがあるのか」という合理主義哲学者のライプニッツが提出した問いも、深い意味では宗教的営みだと思う。この絶対的な「分からなさ」。圧倒的な分からなさの前に立つ。神託だと言ってもいいかもしれない。「無ではなく何かがある」というのは「厳粛」「神聖」な事実であり、それだけで世界を荘厳している。

 なぜ何かがあるの?分からない。その絶望的な「分からなさ」の前で立ち尽くす。海がある!風がある!猫がいる!花がある!僕がいる!なぜ?分からない。僕はこの「分からなさ」に対する最適解は「合掌」であると思う。

価値観

 僕は反出生主義を「真理」だと思い込んでいる人をカルト宗教にハマっている人と変わらないと思うが、僕の思っている真理、すなわち「結局死ぬから何もかも無駄」というのは「価値観」なのだろうか?カルト宗教なのだろうか?
 これを真正面から父親に否定されたことがあるが、僕は「100年後には何も残ってないから何もかも無駄」と言ったら「父さんは会社も子供も残せてるから意味はある」と言われた。「でも100億年後には地球は太陽に飲み込まれて全員死ぬ」と言ったら「100億年後のことは自分に関係ない」と言われた。

 「価値観」とは「その人の考え方」みたいな言い方をされる言葉だけれど、辞書を引くと「価値観とは、簡単にいえば「何に価値を見出すか」という感じ方を意味する表現。」と出てくる。「結局死ぬから何もかも無駄」というのは価値観だろうか?僕は価値観ではないと思う。

 死=無だとすれば、その人の見ていた、作っていた「主観」が全て「終わり」になり、何もかも「虚しかった」となるだろう。いや、この客観的世界に何かを残せたのだから、虚しくない、と言われるかもしれないが、そもそも「価値がある/価値がない」と判断する主体がいないのだから、その人が死ねば何も価値あるものはない。そもそもの「価値/無価値」という判断基準が蒸発する。

 人間は「価値/無価値」というものが蒸発する「無」へ向かって毎秒老いている。いや、明日その価値観が蒸発するかもしれない。明日死ぬのに何かをするのは「無駄」ではないだろうか?死の上で踊ってる道化。「結局死ぬから何もかも無駄」というのは一つの価値観ではなくて、「価値/無価値」を決める原理が何もなくなるというメタ価値観であると思う。

 結局死ぬから何もかも無駄。だからできるだけ幸せに生きる?でも何もかも無駄。お手上げ。合掌。念仏。

自然美

 死んだ母親にこういう話をされたことがある。「中学生の頃、先生に「机の上に花を置いて毎日見なさい」と言われたことがある。その時は意味が分からなかったけど、この年になったらその意味がよくわかる。」僕もよく分かるよ。
 
 鎌倉時代の、明恵上人だったか、解脱上人だったか忘れたけれど、道端に咲いている小さな花に合掌をして拝んでいたらしい。その花は仏であると。

 概念的な話をすると、悟りを開いた釈尊の目には、一切衆生が成道して見えたらしいし、浄土真宗では信心を頂くとみんな仏の子に見えるので、自然がより「宗教的」になる。ただ僕はこういう風に「説明」をしても、何か物足りなさを感じる。

 僕は植物が好きだ。花が好きだ。最近は花を見るだけで泣きそうになる。「あぁ、生きてる」と思う。僕の命と白い花の命が交差して、「あぁ、生きてる」という感情が生まれる。最近僕は論理哲学論考という本を読んだのだけれど、それに啓発されて「ゆるやかな神秘主義」という言葉を作った。本当は「神秘」という言葉ではなく「不思議」という言葉を使いたいのだけれど、まあどっちも意味は同じで「言葉にできない」ということだ。これを言葉にするのが詩人なんだろうけれど、詩人の排泄物を見るよりも、目の前にある百合の花を見たほうが何倍も魂が打ち震える。僕はこれはなんなんだろう、と思っていたけれど、「あ、これ"美"だな」と最近思った。ショーペンハウアーは美を「生きようとする意志を静めるもの」だと言ったが、そんなことはないと思う。少なくとも僕は自然美を見ると、「いのち」が踊りだす。僕は今まで概念の世界だけで生きてきたけれど、「美」というものも追及しなければならないなあと思った。美というのは主観的な体験だけれど、それを普遍化して、森岡正博の言葉を使えば「誕生肯定の哲学」のようなものを作るのは可能なんじゃないかと思う。

 美、なんて、快楽主義的なものだと思っていたけれど、「深み」があるのかもしれない。地元の海を見るとそう思う。海は限りなく深い。みんな、花を見て、「あ、生きてる、嬉しい。」と思えればいい。

浄土真宗の非宗教性

 浄土真宗はもちろん宗教だ。けれど、ここで宗教の定義を「religion」ということにしよう。
 宗教、(特定の)宗教、宗旨、…教、信心、信仰、(カトリックの)修道生活、(信仰のように)堅く守るもの、魂を打ち込んでいるもの

 なぜこんな記事を書いているかというと、宗教のことを「虚構主義」だと言っている反出生主義者がいたからである。浄土真宗は虚構主義ではない。

 僕の好きな歌にこういうのがある。「願海は 信ずるでなし聞くでなし ただ名号の響き渡れり」これを少し説明すると、「信心」とは「信じる」ことではなくて、ただ口から「南無阿弥陀仏」が世界に響いている状態。そのことを信心という。
 安心小話という書物にこういう言葉がある。
「又いわく。仰せで安心せよ。仰せを聞いて、それを我が機へもどして安心しようというのは、深く弥陀をたのんだのでない。仰せだけで安心して仕舞うのが、ふかく弥陀をたのんだのじゃ。」
 これも説明が必要だと思う。仰せというのは、人の口から出る「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」である。「我が機」というのは自分の心という意味で、「仰せだけで安心して仕舞う」というのは、「お前を助けるぞと聞こえたな、よし、これでおれの往生は安心だな」と自分の心へ仰せを入れるのではなくて、ただ耳に仰せを聞くだけで、心には何も入れずに安心しろという意味である。

 僕は信心をまだ得ていないけれど、ニセ信心は得たことがある。その時は、本当に「心の中」は空っぽだった。ただ自分の口から出る「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」に「ああ、ありがたいな」と思うだけだった。「心の中」に何も打ち立てるものがない。これを聞即信という。浄土真宗というのは「南無阿弥陀仏」を称えて聞くだけで、それ以上でもそれ以下でもない。何も信じるものはない。

 むしろ、反出生主義のようなものこそreligionに思える。この言葉の原義は「結び付ける」という意味らしい。「堅く守るもの、魂を打ち込んでいるもの」自分達の「出生は悪」という教義を固く固く「心の中」に入れて、それを信じ込んでいる。言葉という虚構で作った言説をあたかも真理のように信じ込んでいる。

 僕には反出生主義という、言語で作った積み木のほうが、虚構主義に思える。

出生主義

生まれてきてよかった——————悲しいときに海が慰めてくれるから。

生まれてきてよかった——————病気のときに母親が支えてくれたから。

生まれてきてよかった——————失恋しても側に友達がいるから。

生まれてきてよかった——————満天の夜空が体を突き刺すから。

生まれてきてよかった——————枯れてしまった百合の花を愛せるから。

生まれてきてよかった——————たくさんの人に感謝できるから。

懐疑

 世の人は「私は自分しか信じない」という。さて、自分とは何か、分かってる人はいるのだろうか。「自由意志」の存在さえ危うくなってきたこの時代に、本当に「自分」が信じられるだろうか?スピノザは「人間は未だに身体が何をなしうるか知っていない」と言ったが、自分の身体、胃、肺、心臓、白血球、赤血球、脳、遺伝子、これらのものがなにをなしうるのか知っている人がいるのだろうか?自分とは何か?心って存在するのか?感性ってなに?直観とは?理性ってなんだろう?僕は自分のことを何も知らない。信じられるものだとも思わない。僕は僕のしたくないこともする。ダイエットが続かない。アルチュール・ランボーのいうように「「私」とは一人の他者なのです」

 上座部仏教の勉強をしているときに、一番魅力的だったのは、苦しみが減ることでもなく、無常を観ずることができることでもなく、預流果という境地に至ると、有身見、戒禁取見、疑が消えると言う面だった。特にこの「疑」が消えるというのが物凄く魅力的だった。ウ・ジョーティカ師の「自由への道」という本へ詳しく書かれているが、瞑想修行をしていると、ある一定の悟りが得られたときに、「釈迦が言ってたことは本当だったんだ!今までは少し疑ってたけど、釈迦の言ってることは実体験できるし、この道を行けば必ず苦を断滅できる!」と「疑」がなくなるらしい。それが死ぬほど羨ましかった。だが僕はその境地に達することができなかった。

 本当に頼りになるもの。本当に信用できるもの。聖道門の修行をして、全面的に釈尊に帰依することができれば、それは「大地」を持つことだろう。絶対に崩れない大地。何をしても崩れない大地。懐疑とは、小舟に乗って大海で揺さぶられ、心が不安になっている状態であると思う。「大地」に立たなければならない。

 何もかも受け止める堅固な大地を持つこと。これが救いであると僕は思う。

無教

無教マニフェスト

1、ベネターの理論は一部の隙もなく正しい。
2、ただ一つだけ欠陥がある。出生を否定するだけで生きてる人間を対象にしていないことだ。
3、非存在は存在に勝る。現在生きている人間も無になることが望ましい。ただその際、恐怖感を抱かせてはならない。

「準備完了です」助手のような恰好をした人が言った。
「やっとか…」黒づくめのマッドサイエンティスト風の男が言う。
 ここは「無教」のアジト。「無」を崇拝する宗教で、全人類、全生物の無を目指している。生物には「感覚器官」があるから「苦痛」が生まれる。苦痛がある生を生きるぐらいなら、無のほうがいい。反出生主義という思想もあるらしいが、奴らは「ぬるい」。もっと積極的に無を推進すべきだ。無こそ救済であり、出生はもちろん悪だが、生を恐怖なく無にすることは「善」である。
「世界中にヘリコプターを配置しました。アメリカにもアフリカにも、日本にも、イスラエルにも。このステルスヘリコプターで、この「O-157」を散布すれば、0,0000001mg吸うだけで、即死します。恐怖を感じる暇もありません」弟子風の男が言う。
「ここまで、長かったな…。でもこれで人類を救うことができる。全教団員に告ぐ!今すぐO-157を散布せよ!」
 薬の効果は絶大だった。世界中にしかけたスプリンクラーとヘリからの散布で、1秒のうちに世界人口の90パーセントが死滅した。そして2秒後には、ほぼすべての人類が死滅した。
「やったな。これは我々の「存在」への勝利だ!祝杯をあげよう」
 教団員を全て集結させて、宴が続いた。

 「で、これからどうする?」ボスが聞いた。
 「僕はまだ死にたくありません」
 「私も」
 「実を言うと、私も死ぬのは怖い」ボスが俯きながら言う。
 「あとは余生だと思って、自然死するまで生という苦痛を味わおうではないか」
 「賛成!」「賛成!」
 もともと同じ教団に所属していた人達だけあって、牧歌的な生活が続いた。世界人類がいなくなることで、戦争も、環境問題も、いがみ合いもなくなり、平和な日々が続いた。太陽の下で、元無教の人々は仲睦まじく暮らした。
 「これが生だったのか…」元ボスが呟く。
 
 これが後に言う、シュメール文明の起源の物語である。
 
 

僕の中の反出生主義

 苦痛がどうのこうのってのはおいといて、僕は「どうせ産んでも死ぬ」の一点で出生は無意味だと思う。ただ僕は「主義」にして群れたりはしない。(僕の宗教的信念は置いといて、近代的意識で考える)

 僕の中にも反出生主義者はいる。僕は子供はいらない。なぜなら「面倒だから」「責任をとりたくないから」もしもの仮定だけど、誰かに子種だけ分けて欲しい、認知しなくていい、面倒も見なくていいって言われたら、子供を作るかもしれない。「自分の子供がどこかで生きてる」って意識は多分気持ちが良いだろうから。僕はエゴイストだ。
 
 僕はうつ病だった経験があるので、反出生主義者の気持ちは分かる。親に「世間はそんなに甘くないよ」と言われるたびに「じゃあ産むなよ…」と思っていた。生まれたくなかったと何度も思った。こんな残酷な世界に子供を産み落とすな、という思考もよくわかる。僕はペシミスティックなところがあるので、基本的には反出生主義と共鳴する部分が大きい。だからこそこんなに攻撃してしまうのだと思う。

 ベネターのように、「心から」人類はゆるやかに絶滅したほうがいいと思っている人に対しては、「優しい人だなあ」と思う。けれどもツイッターにいるような反出生主義者には、僕はこう言う。「腹底から喋れよ!」「自分の言葉で語れ!」
 
 「普通の人」は反出生主義者にならない。「不遇な人」が反出生主義者になる。僕はここで哲学を話すつもりはない。普通のことを書く。
反出生主義「人類は出生をするべきではない」
普通の人「どうしたの?疲れてるの?生まれてきたくなかったの?」
 反出生主義者は「生まれてきたくなかった」という感情を思想に仮託している。「世界人類の苦痛をなくすために」という崇高な思想に仮託している。僕は端的に言おう。「卑怯だ。」

 誰でも思ってると思うけど、世界中の人が幸せならそれにこしたことはない。そして反出生思想を持っている人が幸せになれるかというと、それは怪しいと思う。「生まれてきたくなかった」を加工して「世界人類のために」という論理を作ってその「正しさ」を証明していく。「お前はどうなんだ?」
「自分は惨めだ」という思考を再生産するだけだと思う。そういった思考は捨てたほうがいい。瞑想をすれば捨てられる。

 僕は「生まれてきたくなかった」という思いと戦っている最中なのだと思う。僕は生まれつき精神障害を持っているし、体も弱くて10回弱手術した。
 だから反出生主義者が憎い。信仰をして、「人間に生まれたかいがあった」と思えるように戦っている。反出生主義者のように「出生は悪だ」と裁いていっても「己」は幸福にはなれないと思う。その意味で、僕はこの思想は有害な思想だと思う。

 反出生主義者!腹底をぶちまけろ!生まれてきたくなかった?瞑想をしろ!第三世代の認知療法をしろ!きっとよくなる。思想は捨てられる。思想を捨てよ、自然を見よう。

生きてる意味

 仏教に「戯論」という言葉がある。仏教によれば、全ての言説は「戯論」である。戯れの論である。人間は言語という眼鏡をかけて世界を見ているが、その眼鏡も「戯論」である。その戯論が寂滅することを「涅槃」という。

 生きてる意味は、「言葉の中」にはない。言語を絶した風光を見た人は「意味性」のようなものを体得しているんだろうけれど、そうでなくとも、「言葉の外」に出るのは可能じゃないか。

 「沈黙を信じない人は、スタイルだけを信じればいい。」これは原口統三の箴言だが、沈黙にこそ意味があるといえるし、そうでなくともスタイル、文体に意味があるのかもしれない。否定神学みたいな思考方法だけれど、僕は「生きる意味」というのは「理性」や「言語」の外にある「非合理的」なものだと思う。それを一身に担うのが宗教であって、例え宗教を持っていなくとも、通勤中に百合の花がおじぎをしているのを見れば、僕の言っていることが分かるだろう。生きる意味というのは「語る」ものではなくて「示す」ものなのだと思う。語れば語るほど遠ざかる。冷暖自知。
 「なぜ世界は無でなくて有なのか?」世界が有の時点で世界は非合理である。カミュは「人間の、狂おしいほどの理解したいという欲望」と「冷徹な世界」の「関係」が「不条理」だと言っていたが、僕は非合理こそが「意味」だと思う。

 今、窓の外を見たら、青空に雲がかかっていた。窓際には猫が座っていて、前足を舐めていた。何も「理解」できない。言葉にしても何も分からない。でも世界が「そうなっている」。なぜ?分からない。何も語れない。沢木興道も、「残念じゃが、真理は本の中にはない」と言っていた。
 神社を散歩する。神様がいて、アリがいて、近所の子供の落書きがあって、地元の人とすれ違って、念仏して、世界は非合理=意味を分泌する機械だ。
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