人生入門

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哲学書読書計画
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丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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貴族

 貴族探偵という小説がある。僕はこの小説の作者の麻耶雄嵩の大ファンなのだが、麻耶雄嵩は「探偵とは何か」を作品の中で模索している。「名探偵 木更津悠也」という小説では、いわゆるワトソン役のほうが頭がよく、ホームズ役の主人公は、ワトソン役の手回しによって、犯人を特定することができる。けれどこのワトソン役は「俺は探偵じゃない、探偵たる所以は賢さではなくて、かっこよさだ」というようなことを言っていた気がする。
 それを発展させたのが貴族探偵という小説で、この小説では探偵は貴族である。そして、事件が起きたら颯爽とやってきて、召使いに推理をさせる。そして召使いが事件を解決したあと、ナルシズム的な発言をして去っていく。この小説において、探偵とは誰なのか?もちろん貴族である。推理をしなくても貴族なのである。探偵とはなんぞや?と問いかける傑作ミステリである。

 僕は貴族哲学者である。僕は哲学をしない。自分が、哲学上で偉大な発見、研究ができると思うほど思い上がっていない。ソクラテス以後の、召使いに哲学をやらせている。最近はマルクス・ガブリエルとかいうのが活きがいい。哲学者に哲学のセンスは必要ない。最近、京大院に行っている友達に院に行ったら?と言われたが、僕はそういう柄じゃない。院にいるのは召使いだ。僕は結果を読むだけでいい。勝手に哲学をしてくれる召使いがたくさんいて、楽しい。僕は、哲学者である。

 

救いとは何か2

 ツイッターで素晴らしい言葉が流れてきた。
「称我名字の仰せのままに、名号を称念することに於て、最もありがたく感ぜらるることは、「すくひ」を求める必要がなくなること、従って救済者を探し求める必要がなくなることである。(松原致遠)」

 人間は霊的郷愁を持っていると思う。すなわちホモ=レリギオーススであると思う。西田幾多郎の言うように、哲学は全て宗教へ収斂すべきであるし、鈴木大拙の言うように霊性を持っていない人間は畜生と同じであるし、キルケゴールのいうように信仰を持っていない人間は全員絶望していると思う。それが意識的にであれ、無意識的にであれ。
 まあこんなのは宗教者の理屈であるから、無神論の人は大きなお世話だと思うかもしれないが、「虚しさ」というのは誰でも感じたことがあるものだと思う。そしてその虚しさというのは一時の快楽で埋まるようなものではないこともみんな分かっていると思う。虚無の穴に落ちながら、蜂蜜を舐めているようなもので、根本的な穴は塞がらない。
 
 僕は悟り系の本をかなり読んだが、「探求の終わり」という言葉がたびたび出てくる。「もう何もすることがない」ことが、救いだ。何も求めていないことが「救い」だ。何かを求めることは、根本的に「苦悩」である。

 みんな「根本的解決」を求めている。実存に穿たれた穴をふさぐノリのようなものを探している。だけどそれがなんなのかは分からない。

「僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れている。
そのためにははや、食慾も性慾もあってなきが如くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さえ、悉皆分ったためしはない。

時に自分を揶揄うように、僕は自分に訊いてみるのだ、
それは女か? 甘いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!「いのちの声」——————中原中也」

 いのちの声が叫んでいる。あれでもない、これでもない!

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。
しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネによる福音書 4:13-15)」

「設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるならば、わたしは決して仏になりません。
(寿命無量の願・じゅみょうむりょうのがん)」

 いのちの声に導かれて、霊的な水を飲んだ時、人は「すくひ」を求める必要がなくなる。それまでは、絶えず、あれでもない!これでもない!と「探求」しなければならない。「救い」とは、「救い」を探さなくてもよくなることだ。

救いとは何か

 ギリシャ神話で、時間の神クロノスは、自分の父を殺して王になった。つまり時間は父を殺していく。常に、絶えず。この時間の無化する性質によって、人間の全ての絶望が成り立っていると思う。「時よ止まれ、お前は美しい」とならないところに人間の「救われるべき」原因がある。
 
 話は変わるが、僕は母親が死んだときに少し違和感を覚えたことがある。母親が死んだ後も、親族は「母さんは〇〇が好きだったよね」とか「母さんはこういう風にしてたね」と母親の話をしていた。僕は、人は死ぬと、てっきりこの世から一切消え去るのだと思っていたので、かなり違和感があった。物凄く月並みな表現だけれど、「死んだ人も思い出の中に生きてる」とはこういうことかと思った。
 けれども思い出も、クロノスに殺されていく。僕は僕の父親の父親の父親を知らない。クロノスに食い殺された。
 
 ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者の「死」という本の中に、結局死後にはどうなるのか、という問いに対して「形而上学的事実」が残ると書いてあった。僕が今こうしてブログに書いていることも学校を中退したことも宇宙的な事実として残るということだろう。本当か?僕は残らないと思う。残るには「観測者」が必要になる。その観察者がいわゆる神なのだと思う。

 ある仏教説話によると、死ぬと、閻魔大王に、自分の行った罪を書かれたノートを見せられるらしい。そこで天界へ行くか地獄へ行くかが決まるらしい。似たような話で、こっちのほうが根本的だと思うが、確かアウグスティヌスが、この世の出来事は全て神のノートに書かれているといったようなことを書いていた気がする。僕が生まれて、老いて、病気になって、苦しみながら、七転八倒しながら生きているこの「記録」がなされているとしたら、それはこの苦しみにも何か「救い」のようなものがあると思う。すなわち永遠性が。全くクロノスに食い殺されて意味のなくなる「苦悩」には救いはない。
 現代のスピリチュアル界隈ではそれを「アカシックレコード」という表現をしているのだと思う。

「昆虫学者がガラス張りの中に昆虫を入れて、それらが物を食うたり、とも食いしたり、つるんだり、鳴いたりしているのをいちいち見ておるように、われわれ生活のいちいちも、じつは「真実」からすっかりのぞかれておるのだ。」これはある禅僧の言葉だが、僕たちは「永遠の真実」からすっかり覗かれている。ということは僕たちの人生や苦悩というのは永遠性を帯びたものであって、それだけで聖化されているということだ。僕の信仰ではそれは阿弥陀仏ということになる。

 意味のない苦しみという観念が人をさらに苦悩させる。ただ、救われた人間の苦悩は、絶対者のノートに記帳されることになる。見ているものがいる。「視線」がある。一人じゃない。苦悩は垂直であり、絶対に無駄だということはない。安心して苦しめるとは、そういうことだと思う。

 

初夢

 初夢は、猫の歯医者に治療される夢と、過去にタイプスリップする夢だった。過去にタイムスリップする夢はこの1年半ぐらいの間に4,5回見ていて、ほとんど同じ展開になっている。リアルな夢だ。
 僕は何かスイッチのようなものを持っている。その機械のようなもので僕はタイプスリップをしたらしい。頭脳は大人のままで、体は子供になっている。そこで僕が真っ先に思いつくのが、「母親に47歳で胃癌で死ぬことを伝えて未来を変えないと」ということだ。けれどもなぜかそれが叶わない。タイムスリップした場所が、どこかの田舎で、途方にくれて家に帰れなかったり、学校にタイムスリップするのだけど、なぜか学校と家が途方もなく遠くて走っても走っても家にたどり着けなかったり(大人帝国のしんちゃんみたいだった)、今日見た夢は、僕が15歳になって、母親も横にいるのだけれど、母親は何かが剥離しているとかなんかで、すでに胃癌になっていた。手遅れだった。朝起きたとき、僕は泣いていた。
 時間は戻らない。死んだ人は生き返らない。運命は変えられない。繰り返されるタイムスリップと胃癌の夢は、そのことを伝えてるように思えてならない。「けんちゃん、時間は戻らないから、今を精いっぱい生きてね。お母さんも元気にしているからね」と今も僕を心配してくれている。母親は生きている。どこに?夢の中に。夢って何?夢が現実だよ。

問題

 僕は、問題意識のレベルがその人の思考のレベルを決めると思う。ハイデガーは「形而上学入門」の中で、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」という問いが「等級」から言って最上の問いだと言っていたが、僕も哲学の問題ではそれが一番かもしれないと思う。ただ、哲学ではなく、自分の人生を考えるときに、「等級」から言って一番深い問いは「結局死ぬのになぜ生きるのか?」であると感じる。
 他にも「高級」な問いはある。「どうすれば貧困をなくせるか?」「どうすれば民主主義を徹底できるか?」「物質とは何か?」「どうすれば、福祉とメンヘラを繋げられるか?」これらの問いも、「高級」だと思うが、僕の独断と偏見によれば、「最上級」の問いは「結局死ぬのになぜ生きるのか?」である。貧困をなくしても、結局みんな死ぬ。民主主義を徹底しても、結局みんな死ぬ。福祉があっても人間は死ぬ。
 大いなる問いを持つこと。問いはいくつも持つことが可能だ。僕は「結局死ぬのになぜ生きるのか?」という問いの解決をしない、もしくは持ちもしない人生というのは虚しいと思う。もっと深い問いもあるのかもしれない。ただ僕は今のところ「結局死ぬのになぜ生きるのか」が深い問いだと思う。
 答えはなくてもいいのかもしれない。深い問いを胸に秘めて生きること。人生は畢竟、大いなる疑問符だ。

 母親によると、僕は昔から質問ばかりしていたらしい(空はなんで青いの?赤ちゃんってキスだけでできるの?)。大きい問いを持った、大きい人間になりたい。

そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!

いのちの発露

 哲学には公理やら原理がある。タレスは万物の原理は水であると言った。スピノザは万物は神即自然だと言った。ニーチェは力への意志だと言った。デカルトはコギトで、バークリーは知覚。ショーペンハウアーは意志で、ウィトゲンシュタインは一般命題。
 僕の感覚は、ニーチェやショーペンハウアーに近い。全ての根源に「生きんと欲する意志」があり、それが根源の根源だ。
 
 僕は「いのち」より大事なものを知らない。「今生きているという事実」より確実なことを知らない。人間の精神文化というのは、畢竟「いのち」の「発露」だ。ラスコーの壁画。あれは「いのち」の発露だ。ギリシャ哲学。あれは「いのち」の発露だ。書くのも、読むのも、作るのも、歩くのも、食べるのも、トイレするのも、寝るのも、「いのち」の発露だ。
 僕は哲学や芸術など、「真理」を探究しようという営みも、結局「いのち」から出て「いのち」へ帰るしかないんじゃないかという直観がある。自分の「いのち」を外化したのが哲学や芸術であって、それは「いのち」の残りかすのようなものだけれど、それでも「いのち」の残り香はする。

 すべてはいのちの発露だ。いのちを非言語的に掘っていくのが座禅という作業なのだとしたら、それ以外にいのちを深化させることができるものがあるだろうか。いのちは言語化できない。あえて言語化すれば「南無阿弥陀仏」だろうが、僕はもっと「知りたい」。いのちの残りかす、即ち哲学や芸術にヒントがあるだろうか?信仰を深めることでわかるだろうか?全てはいのちから発し、いのちへ帰る、これは極めて自明で、当たり前のことだ。その「いのち」のことが知りたい!スピノザのいのちの書いた残りかすではなく、スピノザのいのちを知りたい。いや、僕のいのちを知りたい。僕のこの文章は、僕のいのちの発露だ。残りかすだ。哲学や芸術の根本にある、いのちそのものを知りたい。"僕"を知りたい。
 心臓が動いている。手術で傷ついた肺が動いている。呼吸をしている。生きている。生きている、の底の底。多分何も分からない。語りえぬものなのかもしれない。少し考える。

 いのち、それは「語られるもの」ではなくて、「示されるもの」なのかもしれない。一生懸命、虫の死骸を運んでいるアリを見よ。道端に咲いている、冬の花を見よ。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

言葉 生命肯定

ときとして人は、動物は精神的能力を欠いているために話さないのだ、と言う。そしてそれが意味するのは、「彼らは考えないから話さないのだ」ということである。だが彼らは単に話さないだけなのだ。あるいはもっと上手く表現するなら、ー最も原初的な形態の言語を除くとー彼らは言語という道具を使用しないのである。命令する、問う、物語る、雑談をする、これらの行為は、歩く、食べる、飲む、遊ぶといった行為と同様に、我々の自然誌の一部なのだ。——————『哲学探究』ウィトゲンシュタイン


 僕は数年前に、言葉とは「鳴き声」だと言っていた。「ここは俺が奢るよ」は交尾のための鳴き声で、「明日遊ばない?」はスキンシップの鳴き声で、等々。これをもっと広げると、言葉とは生きるための「道具」だと言える。人間にアリクイのようにアリを食うための長い口がないように、キリンのように長い首がないように、動物というのは個々で独特の道具を持っている。クジャクの綺麗な羽は「ここは俺が奢るよ」である。
 テレパシーのみで会話する宇宙人が地球に来たとすると、人間も動物も、口から音を出して、なにかコミュニケーションをとっているという点では何も変わらないだろう。「言葉」とは生きるための道具であり、それは鳴き声であり、長い首であり、鳥の巣であり、足の速さだ。

 そういう意味で、「言葉」とはそもそも生命肯定のためにある。言葉の「内容」なんて捨象してしまっても、言葉をしゃべっているという「形式」だけで、「生きるために何かしたい」ということを「示している」。だから言葉を喋るというのは、呼吸と同じだ。それだけで生命肯定だ。

 言葉=鳴き声=生きたい=生命肯定、という形式がある。言葉の内容なんて関係ない。だから思想というのも、もってまわった鳴き声の、生への意志に過ぎない。

 「生きるため」に言葉を吐く、思想を作る。思想の奥には「命」がある。そして、自己を反省して「命」を掴むことができるのは人間しかいないと思う。言葉に拘泥されてはいけない。言葉の奥にある命を掴むこと。鳴き声を発する「意志」を反省的に掴むこと。これは人間にしかできない。
 大いなる命へ帰依します。南無阿弥陀仏。

神様っているの?

しん
〖信〗 シン まこと
1.
《名・造》(言葉で)うそをいわない。まこと。

 清沢満之だったかが、信仰とは主観的事実だと言っていた。なら、それは「思い込み」と何が違うの?と言われるかもしれない。僕は「主観的事実」というのは少し危うい表現だと思う。
 僕は神仏というものは「信」であると思う。そうするとまた「はいはい、信じる人の心の中にいるんでしょ」と言われるかもしれないが、そういうわけではない。「信」がどこにあるのかは、分からない。ここで「信」というのは「まこと」という意味で使っているのだけれど、客観世界に存在するのかもしれないし、主観世界に存在するのかもしれない。もしくは、両方にまたがっている。真宗の「機法一体(心と阿弥陀が一つ)」というのは「信」が主観世界と客観世界にまたがっているということだろう。「信」というのは「信じる人の心の中」にいるのか、「宇宙」にいるのか、もしくはその関係性なのか僕には分からないけれど、僕は神仏というのは「信」であると思う。
 だから信のない人に神仏はいない。心の中にいないという意味ではない。端的にいない。信じたからその人の心の中に仏ができる、というのではない。そういう時間的継起はない。信そのものが仏だ。
 主観世界か客観世界か分からないけれど、世界には「信」がある。つまり仏はいる。信=仏に出会うことが命に出会うことだ。つまり、「ありがたい」ということだ。

躙り口

 僕は家が浄土真宗でもないし、どこの門徒でもないので、時宗という「信じなくても救われる」という宗教を信じる(?)という選択肢がいつも付きまとっている。これは本当に何度も頭をちらついたことで、疑いが深くなってきて、「もうだめだ」と思ったとき、いっそ一遍上人に帰依したらいいじゃないか、信じなくても浄土へ行けるじゃないか、と何度思ったか分からない。「信」が救いに必要かどうかは、僕にとっては本当に切実な問題だった。

 話は変わるが、僕は茶道なんか全然知らないんだけれど、千利休が、わざと入り口を低くして、高い位の人間も、頭を下げて部屋に入らなければならないという仕組みを作ったということを聞いたことがある。これを躙り口というらしい。宗教と全く同じだ、と思った。
 「信」とは頭を下げることだ。そして頭を下げないと、躙り口を通ることができない。躙り口の向こうには、無量寿、永遠の命の世界が広がっている。ぼーっと突っ立ったままでは、救われないのだ。永遠の命の国へ入るためには、頭を下げて、身をかがめる必要がある。これは等式なのだと思う。頭を下げて、入り口から入って、命の国へ行く、のではなくて頭を下げる=入口を通る=命の国へ入る、なのだと思う。
 頭を下げたことが救われたことであり、僕は突っ立ったままでは、命の国へは入れないと思う。


 

ニーチェ関数

「よし、これが生か、ならば(生を)もう一度!」というのが永劫回帰という思想の定式だ。これが生の最高の方程式だ。これを関数にすると「よし、これがXか、ならば(生を)もう一度!」になる。いろいろ作ってみよう。
「よし、これが恋愛か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これが家族か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これが仕事か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これが美か、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これがゲームか、ならば(生を)もう一度!」
「よし、これがユーチューブか、ならば(生を)もう一度!」
無限に作れる。
 死んでしまった母親に、この永劫回帰の話をしたら「母さんはみんながいるから何回でもこの人生があってもいいわあ」と言っていた。晩年は癌の苦しみと戦ったが、母親は人生を根源的に肯定していたのかもしれない。母親の場合は「よし、これが家族か、ならば(生を)もう一度!」だと思う。

 この関数には基本的になんでも入れることができるけれど、入れたらバグるものが少しある。
 「よし、これが南無阿弥陀仏か、ならば(生を)もう一度!」
 「よし、これがイエス・キリストか、ならば(生を)もう一度!」
 南無阿弥陀仏や、イエス・キリストに出会うと、人生が回帰しない。この人生が永遠に続いていく。ニーチェ関数は、宗教を入力するとバグる。そしてこの「バグ」がニーチェを超えていくことなのだと思う。ニーチェの肯定よりも、より深い肯定。生まれてきてよかったと本当に思えるものに出会えること。ニーチェ式の輪廻から抜け出ること。バグがある。僕は永劫回帰をぶち破って、浄土へ行きたい。
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