救いとは何か | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

救いとは何か

 ギリシャ神話で、時間の神クロノスは、自分の父を殺して王になった。つまり時間は父を殺していく。常に、絶えず。この時間の無化する性質によって、人間の全ての絶望が成り立っていると思う。「時よ止まれ、お前は美しい」とならないところに人間の「救われるべき」原因がある。
 
 話は変わるが、僕は母親が死んだときに少し違和感を覚えたことがある。母親が死んだ後も、親族は「母さんは〇〇が好きだったよね」とか「母さんはこういう風にしてたね」と母親の話をしていた。僕は、人は死ぬと、てっきりこの世から一切消え去るのだと思っていたので、かなり違和感があった。物凄く月並みな表現だけれど、「死んだ人も思い出の中に生きてる」とはこういうことかと思った。
 けれども思い出も、クロノスに殺されていく。僕は僕の父親の父親の父親を知らない。クロノスに食い殺された。
 
 ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者の「死」という本の中に、結局死後にはどうなるのか、という問いに対して「形而上学的事実」が残ると書いてあった。僕が今こうしてブログに書いていることも学校を中退したことも宇宙的な事実として残るということだろう。本当か?僕は残らないと思う。残るには「観測者」が必要になる。その観察者がいわゆる神なのだと思う。

 ある仏教説話によると、死ぬと、閻魔大王に、自分の行った罪を書かれたノートを見せられるらしい。そこで天界へ行くか地獄へ行くかが決まるらしい。似たような話で、こっちのほうが根本的だと思うが、確かアウグスティヌスが、この世の出来事は全て神のノートに書かれているといったようなことを書いていた気がする。僕が生まれて、老いて、病気になって、苦しみながら、七転八倒しながら生きているこの「記録」がなされているとしたら、それはこの苦しみにも何か「救い」のようなものがあると思う。すなわち永遠性が。全くクロノスに食い殺されて意味のなくなる「苦悩」には救いはない。
 現代のスピリチュアル界隈ではそれを「アカシックレコード」という表現をしているのだと思う。

「昆虫学者がガラス張りの中に昆虫を入れて、それらが物を食うたり、とも食いしたり、つるんだり、鳴いたりしているのをいちいち見ておるように、われわれ生活のいちいちも、じつは「真実」からすっかりのぞかれておるのだ。」これはある禅僧の言葉だが、僕たちは「永遠の真実」からすっかり覗かれている。ということは僕たちの人生や苦悩というのは永遠性を帯びたものであって、それだけで聖化されているということだ。僕の信仰ではそれは阿弥陀仏ということになる。

 意味のない苦しみという観念が人をさらに苦悩させる。ただ、救われた人間の苦悩は、絶対者のノートに記帳されることになる。見ているものがいる。「視線」がある。一人じゃない。苦悩は垂直であり、絶対に無駄だということはない。安心して苦しめるとは、そういうことだと思う。

 

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