救いとは何か2 | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

救いとは何か2

 ツイッターで素晴らしい言葉が流れてきた。
「称我名字の仰せのままに、名号を称念することに於て、最もありがたく感ぜらるることは、「すくひ」を求める必要がなくなること、従って救済者を探し求める必要がなくなることである。(松原致遠)」

 人間は霊的郷愁を持っていると思う。すなわちホモ=レリギオーススであると思う。西田幾多郎の言うように、哲学は全て宗教へ収斂すべきであるし、鈴木大拙の言うように霊性を持っていない人間は畜生と同じであるし、キルケゴールのいうように信仰を持っていない人間は全員絶望していると思う。それが意識的にであれ、無意識的にであれ。
 まあこんなのは宗教者の理屈であるから、無神論の人は大きなお世話だと思うかもしれないが、「虚しさ」というのは誰でも感じたことがあるものだと思う。そしてその虚しさというのは一時の快楽で埋まるようなものではないこともみんな分かっていると思う。虚無の穴に落ちながら、蜂蜜を舐めているようなもので、根本的な穴は塞がらない。
 
 僕は悟り系の本をかなり読んだが、「探求の終わり」という言葉がたびたび出てくる。「もう何もすることがない」ことが、救いだ。何も求めていないことが「救い」だ。何かを求めることは、根本的に「苦悩」である。

 みんな「根本的解決」を求めている。実存に穿たれた穴をふさぐノリのようなものを探している。だけどそれがなんなのかは分からない。

「僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れている。
そのためにははや、食慾も性慾もあってなきが如くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さえ、悉皆分ったためしはない。

時に自分を揶揄うように、僕は自分に訊いてみるのだ、
それは女か? 甘いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!「いのちの声」——————中原中也」

 いのちの声が叫んでいる。あれでもない、これでもない!

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。
しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネによる福音書 4:13-15)」

「設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるならば、わたしは決して仏になりません。
(寿命無量の願・じゅみょうむりょうのがん)」

 いのちの声に導かれて、霊的な水を飲んだ時、人は「すくひ」を求める必要がなくなる。それまでは、絶えず、あれでもない!これでもない!と「探求」しなければならない。「救い」とは、「救い」を探さなくてもよくなることだ。

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