言葉 生命肯定
ときとして人は、動物は精神的能力を欠いているために話さないのだ、と言う。そしてそれが意味するのは、「彼らは考えないから話さないのだ」ということである。だが彼らは単に話さないだけなのだ。あるいはもっと上手く表現するなら、ー最も原初的な形態の言語を除くとー彼らは言語という道具を使用しないのである。命令する、問う、物語る、雑談をする、これらの行為は、歩く、食べる、飲む、遊ぶといった行為と同様に、我々の自然誌の一部なのだ。——————『哲学探究』ウィトゲンシュタイン
僕は数年前に、言葉とは「鳴き声」だと言っていた。「ここは俺が奢るよ」は交尾のための鳴き声で、「明日遊ばない?」はスキンシップの鳴き声で、等々。これをもっと広げると、言葉とは生きるための「道具」だと言える。人間にアリクイのようにアリを食うための長い口がないように、キリンのように長い首がないように、動物というのは個々で独特の道具を持っている。クジャクの綺麗な羽は「ここは俺が奢るよ」である。
テレパシーのみで会話する宇宙人が地球に来たとすると、人間も動物も、口から音を出して、なにかコミュニケーションをとっているという点では何も変わらないだろう。「言葉」とは生きるための道具であり、それは鳴き声であり、長い首であり、鳥の巣であり、足の速さだ。
そういう意味で、「言葉」とはそもそも生命肯定のためにある。言葉の「内容」なんて捨象してしまっても、言葉をしゃべっているという「形式」だけで、「生きるために何かしたい」ということを「示している」。だから言葉を喋るというのは、呼吸と同じだ。それだけで生命肯定だ。
言葉=鳴き声=生きたい=生命肯定、という形式がある。言葉の内容なんて関係ない。だから思想というのも、もってまわった鳴き声の、生への意志に過ぎない。
「生きるため」に言葉を吐く、思想を作る。思想の奥には「命」がある。そして、自己を反省して「命」を掴むことができるのは人間しかいないと思う。言葉に拘泥されてはいけない。言葉の奥にある命を掴むこと。鳴き声を発する「意志」を反省的に掴むこと。これは人間にしかできない。
大いなる命へ帰依します。南無阿弥陀仏。
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