神様っているの?
しん
〖信〗 シン まこと
1.
《名・造》(言葉で)うそをいわない。まこと。
清沢満之だったかが、信仰とは主観的事実だと言っていた。なら、それは「思い込み」と何が違うの?と言われるかもしれない。僕は「主観的事実」というのは少し危うい表現だと思う。
僕は神仏というものは「信」であると思う。そうするとまた「はいはい、信じる人の心の中にいるんでしょ」と言われるかもしれないが、そういうわけではない。「信」がどこにあるのかは、分からない。ここで「信」というのは「まこと」という意味で使っているのだけれど、客観世界に存在するのかもしれないし、主観世界に存在するのかもしれない。もしくは、両方にまたがっている。真宗の「機法一体(心と阿弥陀が一つ)」というのは「信」が主観世界と客観世界にまたがっているということだろう。「信」というのは「信じる人の心の中」にいるのか、「宇宙」にいるのか、もしくはその関係性なのか僕には分からないけれど、僕は神仏というのは「信」であると思う。
だから信のない人に神仏はいない。心の中にいないという意味ではない。端的にいない。信じたからその人の心の中に仏ができる、というのではない。そういう時間的継起はない。信そのものが仏だ。
主観世界か客観世界か分からないけれど、世界には「信」がある。つまり仏はいる。信=仏に出会うことが命に出会うことだ。つまり、「ありがたい」ということだ。
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